9月1日のFMクマガヤ 梅林堂提供 やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語
第48回は「妻沼線の今昔」昭和58年に惜しまれながら廃線となった妻沼線 正式には東武熊谷線といいました。明治45年に足尾銅山から大間々 太田 熊谷 八王子を通って平塚に至る計画があったそうです。しかし昭和12年日中戦争が起こると 中島飛行場と高崎線をつなぐ計画もできたそうです。その後熊谷から妻沼間の工事が行われ昭和18年12月に営業を開始したそうです。今年は戦後80年 「なぜ今妻沼線なのか」を考えます。ゲストは、熊谷の歴史と言えば!この方々 平井夫妻 熊谷市史編さん委員の平井加余子さん と石原公民館長の平井隆さんにきていただいてお話をうかがいします。どうぞお楽しみに!

AInottaによる書き起こしを修正
Navi 時刻は12時を回りました。AZ熊谷6階FMクマガヤYZコンサルティングスタジオからお送りします。梅林堂提供やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語 第48回今日は「妻沼線の今昔」ということで、お伝えしていこうと思いますけれども 今日は熊谷の歴史と言ったらこの方々、平井夫妻に来ていただきました。こんにちは。
加余子・隆 こんにちは
Navi まず今日は、熊谷市史編纂委員でよろしいですか。平井加余子さんです。昨日で講演したばっかりということでどうでしたか?昨日の「妻沼線を学ぼう」の講演の主催は妻沼地域文化財調査研究会ということで、どうでしたか?
加余子 昨日すごくたくさんの人が来てくださってびっくりしました。
Navi 何人ぐらい来たんですか?
加余子 68人だって言っていました。
Navi 妻沼中央公民館2階大会議室で68人は、いっぱいでしたね。こちらを見ると郷土史家 元熊谷市職員、熊谷市文化財保護審議会委員、そして熊谷市編纂委員ということで、たくさんの肩書を持っていますね。
加余子 肩書きだけです。
Navi 昨日の講演会の名前は、東武鉄道熊谷線の歩みということなんですね。昨日のお話と同じような感じで聞けなかった人には、ラジオでお話ししていただけるってことよろしいでしょうか?
加余子 はい、
Navi 分かりました。よろしくお願いします。そして、大変お久しぶりというか、
隆 久しぶりですね。
Navi 前回は、第3回の「いしわらかいしはらか」でお2人に来ていただいたんですけども。石原公民館長、そして元熊谷市職員、市史編纂委員の平井隆さんです。こんにちは。
隆 こんにちは、10カ月のご無沙汰ですね。
Navi 本当です。すみませんでした。このお2人が来ればいろんなことが聞けると思っていました。今日、平井館長さんは担当があるみたいですね。
平井 私は「思い出語り」というか、歴史は加余子さんにお任せして、私は「思い出語り」それを中心に話します。
Navi それを楽しみにしていただきたいと思います。ということで、今日は「妻沼線の今昔」ということで、この間の講演内容ですけど、まず、妻沼線とか東武鉄道熊谷線とか言ってますけれども、そもそもこの妻沼線っていうのは、なんていう名前でしたか?
加余子 私たちはいつも妻沼線って言っていて、東武鉄道熊谷線って言うんですよね。本当の名前そんなこと言ったことないですね。もっと親しみを込めて私たちは妻沼線って呼びましたね。
Navi なるほど、「そんな堅い言い方するんじゃないよ」ってやつですかね?でも大事な言葉がここに隠れてますよね。東武。
加余子 そうです、東武鉄道なんですね。とにかく東武鉄道が太田へ、太田工場へ、小泉の工場へ、中島飛行機の工員たちを運ぶために引いた鉄道ってことです。
Navi ちょっと待ってください。まだ今の話じゃ全然わからなかったですね。これが実は目的があるわけですね。
加余子 そうですね、目的が違うんですよね。目的が。
Navi そもそも高崎線で来たような人たちを熊谷から、太田に運ぼうっていう目的があったんですね。
加余子 そのために作られた。
Navi ちょっと待ってください。またあと太田の方に運ぶ。人をなんで、そんなにそちらに運ぼうということですか?
加余子 そこには、もうあの大きな中島飛行機の工場があったわけです。中島飛行機って本当に大きくて太田工場だけでも6万7000人。小泉工場はもっと大きくて8万8000人、15万人以上の人があそこで働いていたんです。一番すごい時代。
Navi そこに人を運ぶために東武熊谷線を作った。作ろうとしたんですね。
平井 軍需線なんですよね。
Navi あっ、それから大事なことをし忘れていました。「なぜ今日妻沼線の話?」ってことですね。
加余子 今年は終戦80年、8月には広島の日があって、長崎があって、それで終戦があって、どこのテレビをつけても新聞を読んでも、そういう戦争関係のことがたくさん載っている。今年はそういう年だったんですね。ですから、タイムリーな時にこの妻沼線のお話をできて、今日お誘いいただいてとても嬉しいです。
Navi そういうことですよね。ですから、戦後80年。戦争についてまた考えるという。
加余子 そうですね。
Navi 先ほどちょっとうかがったんですけれども、東武線でつないで中島飛行機というのは、つまりその日本の飛行機・戦闘機の中心というのが中島飛行機工場ですか?
加余子 なんか最後は1/3を作っていたって言われています。三菱重機に次いで大きくて財閥ですよね。軍需財閥。
Navi 太田工場、そして小泉っていうのは現在でいう大泉町
加余子 そうですね。
Navi そちらでも飛行機・エンジンも作っていましたが、そこに熊谷から行こうとしたんだけど、つながらなかったですね。
加余子 つながらなかったです。でも東武はもともとバスを持ってましたから、高崎線で熊谷に降りた人をバスで運んでたんですね。でもらちが明かない。それぐらい人が多くて。だからどうしても鉄道を引かなくちゃならない。
Navi そして、計画されたということだったんですね。
加余子 だから、それはもう中島飛行機が望んでいたことではなくて、東武が望んでいたことでもない。もう日本の軍が望んでいたことであって、軍の要請で東武が引いたってことですよね。だから、もう発生から違うわけです。
Navi 妻沼線っていうとほのぼのとした、なんかローカル列車っていうけど、そこはもうそういう目的があったのですね。
加余子 すごい目的です。
Navi 決まったのは、戦争前ってことですよね
加余子 戦争前っていうより、「中島飛行機がいつできたか」という話をしたいと思います。中島飛行機っていうのは中島知久平さんが作ったわけですけれど、中島知久平さんは明治17年に生まれで、18歳の時に、海軍の機関学校に入るために、機関学校っていうのは、その機械を作るみたいな学校です。そのために上京して大学も卒業して、そこでアメリカ、イギリス、フランス、そういうところに飛行機の研究者として留学をしているわけです。それから帰ってきて自分でも操縦免許を取って帰ってきて、横須賀の海軍工廠の飛行機工場長をやって、33歳の時、大尉っていう軍人として退官をして、ふるさとへ帰って飛行機の研究所を作るわけです。その時に横須賀から4~5人の若い技師さんたちを連れてきて、飛行機を作るのですけれども、なかなか飛行機がうまくできなくて。それで先日、「最後の空襲熊谷」って本があって、その中を見ますと、お札はお金のことです。「札はだぶつく、お米は上がる。なんでも上がる、上がらないぞい中島飛行機」って言われるぐらい失敗ばっかりだったそうですね。
隆 揶揄された。
加余子 ですから「飛行機を作る」って一言で言いますけれども、なかなかうまく飛行機が作れなかった。でもそれはまだまだ大正の時ですから。昭和12年に、日中戦争が始まるわけです。7月7日盧溝橋事件がありますよね。学校で勉強しますね。そこから戦争へ入っているわけです。それが昭和12年。そこからで昭和16年はあのアメリカで真珠湾攻撃が始まります。日中戦争から8年たって終戦になるわけです。ですから8年間こういう戦争の時代が続きます。そうすると飛行機の重要性っていうものに軍が目をつけて、中島飛行機にどんどん資金援助して「飛行機を」っていうことを始めるわけです。
Navi それでどんどんどん工場が大きくなる。国で資金援助すれば、
加余子 選挙に出て中島知久平さんは工場を早めにやめて、工場は弟さんたちに任せて、自分はもう昭和5年の時に衆議院議員になっても、議員さんになって、政治家だったんです。ですから、そういう意味でもバックが違うんじゃないかなって気はするのですけれども、それで近衛内閣の時に鉄道大臣になるんです。群馬は総理大臣をいっぱい出したり、大臣いっぱい出したりしてますよね。でも、中島知久平さんが大臣1号なんです。4回当選をして、みんな最高位で当選しているわけです。だから自分は政治家として、軍は飛行機が必要で、そういうものがタイアップしていると、どんどんどんどん中島飛行機工場は大きくなっていったんだと思います。
Navi なるほど、それで先ほど言ったように、15万人もの人がそこで働くようになる。
加余子 だから工員だけじゃなくて学徒動員だとか女子挺身隊だとか、そういう人たちが三交代制では毎日作ってるわけですよ。作るって言っても、中島飛行機は飛行機を作ってるんじゃなくて、部品を下請けが作って、そこは組み立てをしているだけです。製作所なんです。熊谷にもいっぱい、部品を作る工場がありました。
Navi ああ、それを運んでいって、あそこで組み立てている。部品を運び、人を運びということで本当に流通して。ということなんですね。さて、じゃあ妻沼線はいつできるんですかね?
加余子 妻沼線はそういう中で昭和17年の2月ですね。
Navi じゃあ、戦争中ですね。
加余子 そうですね、それまではバスで運んでたわけですから、らちがあかないぐらい大変で。それで東武鉄道の社長は、その時、根津嘉一郎っていう人でした。根津嘉一郎が鉄道大臣にあそこは大川村って言ったんですが、大川村と熊谷の間に鉄道を敷きたいっていう申請書を提出するわけです。そうすると、その目的は何かといったら、「太田工場と小泉工場へ通勤する人とか、資材を運ぶために鉄道を敷きたいんだ」っていうことで申請をすると、それがまたすぐ許可されてしまうのです。ですから、17年2月4日にそういう申請をして鉄道工事が始まるわけです。
Navi じゃあもうどんどん作られていくということですね。営業開始まであっという間なんですね。1年ちょっと?
加余子 1年と10カ月ぐらい。申請してからですが
Navi 熊谷から妻沼まで
加余子 それが第一期工事です。それで何しろ大変なのは材料がないんです。資材がないんです。資材はどうしたらいいかということを考えた時に、東武は日光線を持ってますから、日光線の日光駅から戦場ヶ原までの複線だったところを445メートルというものを単線にして、レールをそこから運び出したわけで持ってきたんです。金属もない時代でしたね。何しろ鍋釜まで供出するような時代ですから、その鉄道線路は大変だったんです。複線を単線にして持ってきました。もうひとつ大変なのは、「高崎線をまたぐ」ということが大変だったわけです。土手を作らなくちゃならない。その土手の材料はどうしようかっていうことで、探して探して。大麻生駅の近くの荒川から南側の河川敷の中に土砂がいっぱいあるのを払い下げてもらって、それを仮の線路を引いて、トロッコのようにして運んできた。「土工列車」といいます。そこにいっぱい積んで、秩父線の合間を縫って入ってくるわけです。秩父線を使って入って、高崎線と秩父線の間に引くことになりましたから、それで土砂を持ってきてはおろして土手を作っていくわけです。これがその写真ですね。
Navi そして高崎線を越える。
加余子 それでも、もっと大変なのは、秩父街道も越えて中山道も越えていかなくちゃならないんですから、その土手は1.5キロありました。あの熊谷農学校の実習の畑のところまで、あの辺までありました。
Navi 私は、うろ覚えに覚えているのは、国道17号のところに、ガードがかかって線路が走って。今で言うと空の上を走るような光景でした。今はあんまり見ないですね、
加余子 そういう土手が1.5キロあって、材料もない何もない。だから、いかに大変な時に作ったかということですよね。
Navi それを1年ちょっとで作り上げて開業したのが?
加余子 昭和18年の12月の5日です。
Navi 最初の第1期工事でできた駅が4つあった。
加余子 駅といっても、熊谷駅の中では秩父鉄道に全面委託をして、おんぶにだっこの形で開業しているわけです。本当は南側に作りたかったんですけど、「お金も時間も材料もない。」ですから、秩父鉄道のホームを借りて、羽生へ行く線の一番西側階段を下りたところを借りて開業していきます。
Navi なるほど。だから上熊谷駅、共通なんですね。
加余子 上熊谷も同じです。
Navi 石原は通らずに曲がっていくんですね。
加余子 曲がって上がってきます。あの伊勢町のところあたりから曲がって北にずっといきます。土手は1.5キロと言いますけど、幅は13メートル、一番高いところで4.2メートルあります。それをずっと登りながら降りて大幡駅です。
Navi 熊谷、上熊谷、そして次は大幡駅。
加余子 大幡駅 上熊谷から大幡駅までは遠くて3.6キロあります。上熊谷までは0.8キロしかないってないですね。そこまでは3本が並んでいる。高崎線、秩父線、妻沼線は並んでいるんですけれども、そこからぐるっと曲がって北へ向かって真っすぐです。登って降りると大幡駅 そして最後の駅は一期工事では妻沼駅だから、妻沼駅まで5.7キロとちょっと遠いんですね。妻沼駅の前は広場があって、バスが7台も8台も止まっているんですね。
Navi つまり降りたらまたバスに?
加余子 そうです。二期工事が始まりませんから、それで太田工場行き、小泉工場行きって分かれて、工員たちがずらーっと並んで、毎日それを繰り出していた。ピストン輸送ですから。
Navi じゃ熊谷駅に高崎線で来たら乗り換えてその後バスに乗り換えて工場へ行く。
Navi それが本当は太田につながるわけだったんですよね。
加余子 つながるわけだったんです。
Navi じゃあ、ここで曲にしたいと思います。1つ目はですね、久保田早紀の異邦人ということでよろしいですか?
加余子 お願いします。
Navi では、平井加余子さんのリクエストで久保田早紀 異邦人お届けします。
【 曲 久保田早紀 異邦人 】
Navi 時刻は12時20分を回りました。87.6メガヘルツFMクマガヤ 梅林堂提供 やわらか熊谷~僕らがつなぐ物語~第48回「妻沼線の今昔」をお伝えしています。今、ちょっと聞いただけでもいろんなお話を聞けたんですけれども。なんか妻沼線の困難なところっていうのは、線路を越え、道を越えっていうその、橋というかブリッジというか、土手というか、なんか思い出でありそうですけれども。
隆 そうですね。高崎線のオーバークロス、それからあと国道17号、皆さんご存知かもしれませんがあそこにガードありましたよね。それから秩父街道を抜けるところにもガードがあって、7つのガードがあったって話なんですが。ちょうど秋元鶏肉屋さんところから始まって、それからあとはずっと石原駅通りがあって、17号、そして秩父街道、そして西熊谷病院の裏のところと、そういうふうに大きな7つのガードがあって土手があって、まさにそれを越えてたっていう。ここで1つの思い出語りなんですが、私、石原に住んでいて、荒川中学校だったんで、そうすると、線路を越えて、高崎線を越えて、妻沼線を越えて秩父線を越えるっていうことになるんです。そうすると妻沼線は土手で、土手を越えた覚えがあります。本当はガードがあって。遠回りをすればいいんいいんですが、近道ショートカットのために土手を越えた覚えがあります。
Navi 線路のところ越えていたんですね。すごい登ってるんですね。
隆 ガードがあるからガードをくぐる道があるんですが、ちょっと遠くなるので、ショートカットでもって真っすぐこういける道ができてたんですよね。学生たち、子供たちはみんなそれを使いました。
加余子 妻沼線は1時間に1本ぐらいしかないから、ほとんどこないですから、
Navi そこをすっと通っていたということですね。
隆 先生も石原小学校にいたのはご存じでしょうが、ちょうどあそこのところの17号と秩父街道のところって、立哨指導じゃないですが、あそこは子供たちが通う通学路になっているのでは?あそこでよく先生方が通学指導してましたよね。後ろには、ちゃんとこのガードがあったんです。
Navi 今はもうないんですけど、記憶には浮かんでます。あそこは今は歩道橋ですけど、その反対側というところに鉄の橋が土手から盛り上がって、道のところは鉄の橋、その鉄の橋の上を電車がかなり高いところを走っているのが柵もなく丸見えでした。その下を今度は車が、当時のものは今の高架橋とかというそういう世界じゃないですよね。高架橋っていうのは、ずっと高さがほぼ同じで緩やかにできていますが、あそこは山のように急な坂で列車が上がっていくということなんですよ。当時なんか妻沼線っていうと、1両とか2両のイメージですけど。スタートの時はもっと何両もあったみたいじゃないですか。
加余子 スタートの時は、とにかく人を運ぶわけですから、その蒸気機関車に5両客車をくっつけているのですよね。それもたくさん乗れるように座席がないんです。全部立ち席で、ぎしぎし詰めで、とにかく一回でたくさんの人を運ぶことが目的ですから。天気が悪い雨の日なんかは、あの坂を上り始めると上れなくて滑って、上熊谷駅頃まで戻っちゃうそうなんです。石炭も悪い石炭だったということで、火力が悪くてなかなか走らなくて、しかも重いですよね。それだけの人を乗せるわけですから。だからバックしていって、みんなが押してあげたいくらいだったっていう話を聞きました。
Navi 他の本を見たら、後ろへ下がって勢いをつけて、もう一回登る!って書いてありました。そんなこと考えられないですね。
加余子 そうですね。
Navi 乗っている人たち、どんな気持ちだったんでしょうかね。でも、それでもなんとしても人を運びたい。
加余子 それが目的ですから。
Navi 機関車のパワーが必要ってことですよね。機関車はずっと妻沼までいって、帰ってくる時は、バックで帰ってくるっていう話ですよね。
加余子 バック運転だったんですよね。っていうのは単線ですし、妻沼駅の中には回転台がない。回転台っていうのはそこでぐるっと回るところです。それがないですから、もう作れなかったんですね、ものがないですから、ですからバック!そのままで後ろに客車をくっつけて熊谷にもどるんです。熊谷へ来るのが上りだったんですけど、上りの時はバックで、下り妻沼に行くときは正面で綺麗な格好で行ったんです。
Navi 今じゃ考えられないですけどね。スタートする時はなんとなく蒸気機関車、綺麗な格好で前向いていく。でも帰りはちょっとかっこ悪いけど、バックで蒸気機関車の後ろが先頭でその後ろに客車を付けて、延々バックで、笑ってらんないですよ。真剣ですね。
加余子 だから、前にこんなに長いものがついていて、すごく邪魔だったんですって。だから、窓から顔を出しながら様子を見ながらこう運転していたそうです。
Navi それもすごいですね。
隆 今でもその光景が見られるのは、パレオエクスプレスが秩父線走ってますよね。そうすると、同じ光景が現れる時があるんですよね。っていうのは、熊谷駅から大麻生の操車場まで行くときには、当然バックで帰るんです。回転台が大麻生にあるんですが、そこにいくまで、バックで、今でもそういう光景はあるってことです。大麻生までにいくと回転台でまた正式に戻ってくるという形で
Navi なるほど。じゃあパレオエクスプレスは今でも戻すときに同じようなことをさせるということですね。
加余子 そうです。でも妻沼線はもう毎日それで人を乗せて走ったんです。もうそれしかないんですから。だから回転台がないってことは大変なことでは、運転する人からしたら大変ですよ。それでやってくるということになりますよね。
Navi 蒸気機関車でたくさんの人を運んでいました。
加余子 でも、私は妻沼線っていうのは、その工員さんたちや物資を運ぶためのものだけだと思っていたんです。でも大幡の人の話を聞いたときに、その列車で毎日のようにあの出征する人たちを送り出していたそうです。出征兵士を
Navi 妻沼線は出征兵士も繰り出すと
加余子 熊谷へ行ったら、国鉄を使って行くわけですよ、だから毎日のように「万歳!万歳!」っていう声が聞こえたそうです。
Navi はぁ、もう本当にその時の妻沼線はフル稼働。これで2期工事をして、じゃあ、いざ太田にっていう計画はありましたよね。
加余子 ありましたけれども、一期工事が開通できるなっていう頃から、準備を始めて、土手を作り始めたんですね。妻沼から利根川へ結ぶ土手だけは作ったんですね。ですから、今はそれがバイパスになっているところですけれど。妻沼の公民館の展示室の脇に登り道がありますよね。あそこには線路が引かれるわけだったんです。あそこは18年の中頃からは工事が始まってきたんです。
Navi そして橋を作ろうとした。
加余子 橋も作ろうとしてました。でも橋は作れなかったんです。橋は作ろうと思ったんですけれども、材料がないんです。それで一生懸命見つけたんですね。東北本線の阿武隈川の橋梁を、作り替えた時の古いのを残してあったんです。
Navi それを持ってこようとしたんですね。
加余子 そうです。それを払い下げてもらって、トラスが四連あったんです。4つそれともう1つは大阪城の東線の淀川にかかっていた橋梁も、取り替えた時の2連が残っていたんです。それを持ってきて、真ん中の6連が大きいのが4つと小さいのが2つで、とにかく6つはできたんです。
Navi つなごうとしたね。
加余子 そうですね、橋脚柱は29本ほぼ完成していました。
Navi 私もちょっと見た記憶があります。あの利根川に「なんだ?この柱は」って橋脚がずっと並んでいたのを見たことがあります。
隆 ピアっていうんですけど、
加余子 一生懸命作ってたわけですよ。
Navi このトラスっていうのはその橋の真ん中ですね。6連は用意できていた。
加余子 だから形としては揃ったんです。持ってこなかったんですよ。そこまでは用意ができたんです。材料的には、でも考えてもしない。毎日「作らなくちゃ、作らなくちゃ」と思ってるうちに終戦になってしまったわけです。だから、今までの使命がパタって8月15日で終わってしまったわけです。昭和18年に開業して1年9カ月で終わってしまったわけです。二期工事が始まり夢中で作っていたら戦争が終わって「もう明日からはいらないよ」ってなっちゃったんです。だけど、このピアが全部作り上がっていなかったものですから、とにかく「このままじゃ、台風の時にかえってこれが邪魔になってしまう」ってことで、「ここまでは作らせてください」っていう申請をして、22年の7月までかかって、これを作り上げたんですね。だから、「この状態で残そう」っていうことで作り上げたんです。
Navi 橋脚ですか?幻の橋の橋脚だったから、
加余子 「いつかまた時代が良くなれば作る、つながるんじゃないか」っていう夢もあったわけですから。そこで一応は「この状態で保てる」ってことで終わりにしたんです。だけど、そこの事務所を閉めてから、もう二度とそこに事務所が開くことはなかったんですけれども、そのままで32年間ずっとそのままになっていたのです。
Navi 32年間ですか、妻沼と熊谷は妻沼線が行ったり来たりしていた。でも幻のその橋のところは、ひたすら待っていた。
加余子 そうなんです。それでも53年の8月7日、どうしてももうこれは、もし水が出た時の邪魔になるからってことで、取り壊そうってことになったんです。国土交通省にお願いをして、これを取り壊して、それで54年3月31日までにすべてなくなってしまったわけです。今、ここは何になっているんですか?
Navi ここはもう今は何もないですよね。
加余子 ゴルフ場でもないんですね。
Navi ゴルフ場も終わっちゃって、今は何もない。
加余子 草むらになってるんですか
Navi 刀水橋の隣ですよね。今はクラウンドゴルフ場ができているそうです。でもなにもないです。
加余子 だから、そこにはそういう物語があったんですよね。
隆 物語っていえば。ピアの傍らに、まさに牛が放牧されていたりしましたよね。
加余子 そういう風景がありました。
Navi そうだ!いました。河川敷に牛がいた。
加余子 そういうのどかな風景が見られたことがあったと思います。
Navi 作った人とか壊した時の人とかは、本当に無念っていうか。
加余子 そうですね、夢です。
Navi つながることが夢だったわけですから、いつまでも残していてね。
Navi 太田と熊谷が東武線でつながり、あともっともっとですよね。鉄道であの夢っていうのは、熊谷と東松山がつながるっていう夢があったのですね。
加余子 そうすれば、池袋までつながる。群馬と埼玉を通って東京へつながる、そういう線も考えていたんですね。なるほど、
Navi 熊谷です。だから高崎線で横につながってから斜めにつながり、秩父線もつながり、まあ、本当に縦にこう南北に太田から池袋までつながるっていうそういう夢があったっていうことだったんですね。
加余子 ですから、東武も一生懸命だったんですよね。熊谷だけじゃなくて。でもこの頃になると、時代も良くなって観光っていうことが始まったので、東武はあの赤城山に、赤城山さんにはケーブルカーを作ったりして、人を呼び込みたかったわけです。それには高崎線だけじゃなく、東武のあの太田の方の電車だけじゃなくて、池袋からも人を呼びたかった。そういう夢があったんです。
Navi 赤城のケーブルカーもあって、私もその今はもう跡地になっちゃって、御神水っていう水を取りに行く線路の跡が、ケーブルカーの跡があって階段を下りてって、お水を取りに行く元の駅の場所っていうのは、本当にその後だけは赤城山残ってますよね。なんか幻です。
加余子 幻ですね。
Navi はい、時代が過ぎるとできるはずのものが、、、
加余子 そういうのだから、妻沼の人たちもまた一生懸命でした。目的の東京まで電車は大体時間通りに動きますからね。東京まで1時間半で行けて、緑がいっぱいの安い土地だよっていうことで、妻沼団地なんかも作りましたし、人を呼び込んだわけですよ。そこで夢が夢で終わってしまうようになってしまうだったわけですけれども、
Navi そうですよね。いや、しかたがない。ではここでちょっと夢が終わってしまったところで下を向いちゃったので、上を向く歌を。じゃあ、平井館長さんからご紹介していただけたらと思います。
隆 坂本九、日航機の飛行機事故でもってなくなりましたよね。それでちょうど40年経つんです。
Navi 40年ですね。ということで、
隆 坂本九のために上を向いて歩こう。お願いします。
【曲 坂本九 上を向いて歩こう】
Navi 時刻は12時39分を回りました。やわらか熊谷僕らがつなぐ物語 第48回妻沼線の今昔をお届けしています。さて妻沼線は、戦争の目的が終わったんですけども、妻沼と熊谷の間は行ったり来たりして、私が見たのはその妻沼線なんですよ。私が乗ったのは白い1両の車両で、自分が子供の時に大幡小学校で科学展覧会をやったので、熊谷駅から母と一緒に大幡駅に降りた思い出があります。とうとう廃線になってしまう。その妻沼線も廃線になってしまう。赤字だったんですか?
加余子 赤字です。何しろ110円の運賃を上げるのに544円かかって、年間2億円の赤字というすごいそれは、もう埋めることのできない赤字だったんです。
Navi そうでしたか。反対していた人もいますよね。
隆 そうですね。まさに廃線に向けてってことであったんですが、やっぱり地元民からすると廃線反対ということでもって、多くの反対運動が起きましたよね。妻沼前駅等でも反対看板がいっぱい立ってました。
加余子 それに大幡に市立女子高校ができたことで、女子高生たちも通ってましたし、大幡団地もできましたから、もう廃線の頃には300世帯もあそこにあったわけです。ですから通勤に使う人も、もう駅まで5分ぐらいでしたから、たくさんいたわけです。それで、この人たちはどうするんだっていう。そういう反対もあったわけですよね。だけど、2億円の赤字には、やはり東武はもう首を振らなかったわけですよ。つなげようというよりは、もうここ終わりにしようっていう。
隆 当然、行政側としても夢ではないですが、さっきも話した通り、埼群軌道新線とか「東松山まで延長していって池袋まで延ばそう。」っていう東京経由の要するに南北線をとにかく作りたかったんですよね。でも、やっぱりその夢も消えてしまってってことで、いよいよ廃線。最後の日ってことでもあった。昭和58年5月31日運命の日です。まさに私たち夫婦もラストランに乗りました。ラストランというのは午後9時16分。
Navi 夜ですね。
隆 最後に熊谷駅を出まして17分でもって、妻沼に着くんですが、そのラストランでした。っていうのは、今でもあのコンサートじゃないですが、ライブにいくと歌手を目の前にして、観客がペンライトを振りますよね。あの光景がまさにその沿線で起きました。ペンライトは昔ないので懐中電灯だったんですが、沿線の人たちがまさに「さよなら」をしてくれました。あれ思い出に残ってます。
加余子 この日一日で8100人の人が乗ったそうです。全部それこそどんな車両でも200%。ものすごい人が集まって、
隆 ぎゅうぎゅうの中、ラストランに乗りましたよ。
加余子 妻沼駅に着いたらば、さよならのセレモニーがあって。あそこから無料のバスで熊谷駅まで送ってくれました。
隆 もうバックできませんから、列車はないので。
Navi じゃあ妻沼終着で2両だったんですか?
隆 2両で終わったんですね。あとはバスを出してくれて熊谷駅まで帰ってきました。
Navi そんなその歴史的な瞬間にいらっしゃったんですね。これが記念のメダルですか?。
加余子 そうそう、これは記念のメダルが出たんですね。だから、まずは乗車券記念の2つの蒸気機関車と、そのディーゼルカーのついた記念の乗車券が売られていく。記念メダルも作られました。あとは記念スタンプですね。スタンプは妻沼駅に置いてあって、いつでも誰でもが押せるようになってましたから
Navi そうでしたか昭和58年ですか。自分は大学で全然違うところにいたので、戻ってきたらもうなくなってた感じだったですね。ラストランに乗ったということで、それで今度はいよいよ廃線後の車両はどうかなっちゃうかということですが。
加余子 そうですね、2600万人も運んだ妻沼線です。
Navi 2600万人?
加余子 だから赤字だとか言われても懐かしく思う人がいっぱいいたわけですよね。今までは3両ありまして、1号2号3号2001と2003まであったわけですけど、毎日頑張ってきた3両は、別々のこれからは人生を送るわけですよ。まず1号車はもうラストランが終わったその時点で熊谷駅へ回送されました。そして、翌朝、秩父鉄道の機関車に引っ張られて、東武動物公園の展示室に展示されるために運ばれてきました。
Navi 運ばれちゃったんですね。
加余子 2号車は妻沼町に寄贈されて、クレーン車でつり上げられてトレーラーに乗っけられて。妻沼展示館の隣の駐車場であれが2号車です。それで3号車はなんと東武船橋駅の東武デパートのジャンク市で売り出されたんです。それで船橋駅前の学習塾の先生が噂では200万円ぐらいで買って、その頃はそろばん教室として使ってたそうなんですけれども、今は学習塾の部屋として使っているということを聞きました。
Navi 今でもあるってことですか
加余子 あると思うんですよ。確認はしてないんですけれども、
Navi ああ、すごい、
加余子 そういう3つのバラバラの人生、
Navi そうでしたか。じゃあ今2002号を見ることができるのですね。妻沼中央公民館の隣の展示館のところで、
加余子 ちょっと裏のところにねありますよね。
Navi そうだったんですか。あっという間に、その妻沼線はあちこちに行ってしまったと。
加余子 終わった後、今度は「かめの道」になりましたね。
Navi そもそもその「かめの道」って言われていたのは、
加余子 ノロノロ走るからかめ号。妻沼線のかめ号はそういうふうに呼ばれてました。
Navi ちょっとあまり良くない名前ですけどね。
加余子 かわいいと思います。
Navi なんかウサギとカメでなんか「遅いなお前は!」みたいな感じなんですかね?
加余子 石原のところで「かめの道」として使われていた盛り土がどうなったか?先生どうなったと思います?それで1.5キロメートル盛り土があったわけですよ。この土手は崩されてさいたま博通りに、その頃に2車線しかなかったものを4車線にするための土盛りに使われたわけです。
Navi 17号バイパスの土盛り?土がそこへ移動したと、
加余子 毎日ダンプカーで運び出して、あそこへ土を持っていって。
Navi あそこの土のところに移動したということなんですね。びっくりしました。私もね、あのガードはどこ行っちゃったんだろうとかね、本当にすごい施設だったんですよね。
隆 ただ、1箇所そのまだ残されている土手があります。っていうのは先ほどオーバークロスの話したんですが、高崎線を横切るラインについてはまだ土手で残っています。
加余子 真ん中は切っちゃいましたけど、残ってます。
Navi だから今でもそれは見ることができるように。行けば見えるんですよね。
加余子 見れます。
Navi まあ、かめ号と言われているので、妻沼線跡地のことをかめの道と言ってるんですね。かめの道、今は公園として使われていますね。
加余子 妻沼駅があったところは、今ははなぶさ苑になっています。
Navi ああ、この間行ってきたところが駅だったんですね。
隆 交流サロンになっています。
Navi その本当にいろんなところに、形跡が残っているなって思ったんですけど、ここでお便りをいただいています。ラジオネームこうのさんからいただきました。「こんにちは 妻沼線こと熊谷線の歴史、興味深く聞かせていただいています。別の場所で、熊谷線についてのセミナーに参加させてさせていただいたことがあり、復活の可能性についてもお話がありました。私は鉄道ファンとして、全国いろいろなローカル施設を撮影していますが、地域を挙げて外から人を運ぶ取り組みがきちんとできている路線は、お客さんもちゃんと乗っていますし、そうでない路線は残念な末路をたどっているように思います。やはり、熊谷線が復活するためには、地域の人たちの利便性だけでなく妻沼を観光地として1層盛り上げることが不可欠でないかと思います」ということでありがとうございました。そうですね。まあ、妻沼も観光としては今はね、
加余子 そうですね。聖天様は国宝になりましたから
Navi そうですよね。そして、昨日の講演会ですが平井加余子さんが行った講演会、人がすごい集まって、妻沼の方は本当に歴史とか妻沼とかについては熱いですね。
加余子 熱いですね。
Navi 気持ちがありますよね。私も妻沼小学校に勤めていた時に、よく分かったんですけど、皆さん本当に妻沼地域を愛していらっしゃる方がたくさんいて、それで今のタイミングかもしれないです。この思いが、なんかとか皆さんに伝わればいいなと思うんです。それから最近、私が興味を持っているのが「跡地道路改良事業」です。これ何ですか?
隆 まさに妻沼線の跡地が散歩道であったり、自動車道路になったりするわけですが、最近市道101号線が開通したことは皆さんご存知ですか?令和4年の3月26日だったんですが、まっすぐ県道葛和田新堀線、まで通行できるようになりました。皆さん走ったことありますか?
Navi 私はあります。最近発見して第二北大通りはお寿司屋さんができて、あそこから真っすぐな道があって、「あれ、これは」と思っているとなんと、グーグルのナビがその道を指してるんですよ。「最短距離」そこを通ったら素敵でしたね。
加余子 素敵な道です。並木道がつながっていて、本当にうれしいんです。
Navi まだ踏み入れたことのないような道で、私は1人だけ「シークレットハイウエイ」と呼んでいます。妻沼にその道を通るとすっといけちゃうんですよね。ちょうど奈良のあのコンビニエンスストアのあたりに出ます。そこからはなぶさ苑の方までつながって。
加余子 だからそこに踏切があったわけですよね。すごくいい道が出来上がって、それが市道101号線、
Navi まあ妻沼線はなくなってしまいましたが、新たな歴史を刻み始めたっていうところなんですけども、どうでしょう何かまだ思いがありましたら、平井加余子さんから
加余子 妻沼線はいろんな色があったんです。それで皆さんはよく知っているのは、蒸気機関車とディーゼルカーが並んでいる写真だと思うんですけれども、これは村田貢先生が撮った写真、高校生の時に撮った写真で色がないんです。白黒なもんで、だけど、ベージュとライトブルーって書いてあるんです。そこで「まあ、こんな色なのかな」って何年から何年までがこの色だったっていう記録もないんですけれども、だいたい30年代はベージュ色とライトブルー、40年代がベージュとオレンジ色、窓枠とその裾だけがオレンジ色。50年代は最後までベージュ一色になっていったんじゃないかなと思います。
Navi この色ですか。本当に深いですね。まだまだ妻沼線の話は尽きないですね。ということで、あっという間に時間になってしまいました。本当に今日はありがとうございました。平井夫妻、また来てください。
隆 はい!
Navi 今日は「妻沼線の今昔」ということで平井夫妻こと平井加余子さん、そして平井隆さんに来ていただきました。今日はありがとうございました。
平井夫妻 はい、ありがとうございました。
Navi また来てください!