2024年10月21日(月)12:00~12:54

梅林堂プレゼンツ やわらか熊谷~僕らがつなぐ物語~

ゲスト 平井隆さん 平井加余子さん ナビゲータ 関根達郎

024年10月21日(月) FMクマガヤ 12:00~12:54 

Navi 時刻は12時を回りました。明日熊谷6回FMクマガヤYZコンサルティングスタジオから生放送でお送りします。月曜のお昼といえば、この番組「やわらか熊谷~僕らがつなぐ物語~」第3回を迎えました。第1回はうちわ祭りから始めよう。第2回は一番街の秘密と熊谷米というテーマでした。第3回今日のテーマは、「いしわらかいしはらか」と地名の読み方からスタートしていきたいと思います。

Navi 今日のゲストはかなりビッグな方々です、ご存知の方は、ご存知の方です。でも知らない方に知っていただきたいと思って このお2人を知っていただきたいということで今日はお呼びいたしました。今日のゲストの方々は「わかんなかったら聞いてみな!熊谷辞典平井夫妻」紹介いたします。まず石原公民館長平井隆さんです。

平井隆(以後 隆) こんにちは。初めてお目にかかります、初めてこういう番組に出させていただきます。石原公民館の平井 隆です。よろしくお願いします。

Navi よろしくお願いします。そして奥様、熊谷市文化財保護審議委員、熊谷市史編さん委員 平井加余子さんです。こんにちは。

加余子 こんにちは、平井加余子といいます。歴史のことばっかりやってきました。

Navi いろいろこれから楽しくお話をしていけたらと思っております。よろしくお願いします。

平井夫妻 よろしくお願いします。

Navi もう知る人ぞ知る市役所の関係者とかみんなご存知ですよ。この2人から今日は貴重ないろんなお話が出ますけれども、すごく深くならないように私の方で調整してまいります。そのくらい詳しいんですよ。この2人は。「わかんなかったら聞いてみな!」って言うのはね、他の方から伺ったのですが、「わかんなかったらこの2人に聞けば大体いろんなことがわかるよ!」と言われたんです。今日はやわらかく深掘りしていきたいと思います。

Navi 私、石原小学校では大変お世話になりました。石原小学校150周年をやっている中でいろんな歴史のことを勉強することになって、校長室からたくさん昔の写真が次から次へと出てくるんですけど今まで誰も怖くて手がつけられなかったのを、学校運営協議会委員で公民館長さんの平井さんにたくさん聞いたのです。

隆 いろんな写真出てきましたよね。懐かしい!私も母校ですので、懐かしく写真を見ました。

Navi そうですか。母校!

加余子 はい、私も石原小学校の卒業生です。2人で一緒で石原小学校、そして荒中です。

Navi 石原小は結構いろんな古い資料が出てきましたね。例えば手紙が出てきたのはありましたよね

隆 そうでしたね。

Navi 二宮金次郎が石原小にはあるんですけどね、写真でみた二宮金次郎が初代だと思い込んでいたんですが、その二宮金次郎はなんと2代目とだったのですね。校長室からできた手紙、実際には像の除幕式の挨拶だったのです。その挨拶を私が読んだら、「二宮金次郎さんは戦争に行かれました」って書いてあったんですよ。

隆 そうでしたね。

Navi 二宮金次郎さんは戦争に行くような感じですか。どうですか佳代子さん

加余子 違いますよね。時代が。だから供出されてしまったんですよね

Navi はい私は それがわからなくてよくわかんないまんま戦争に行ったんだと理解していたのを明確にしていただいたのが平井館長さんだったんです。

隆 そうですね、はい。最初はまさに金物で作った銅像の二宮さんだった。何しろ戦争が激しくなると金属がなくなりますから、鍋や釜も供出させられた。だからそういう中では銅像の二宮さんは大きかったんじゃないですか。戦争がおこると金属だと持ってかれちゃったんですね。初代が金属、2代目が石、今の3代目も石ですね、皆さん見るとわかる通り、かわいいふっくらした二宮尊徳です

Navi そもそも2代目が雷でやられたっていうこともありました。それも150周年の歴史を調べていてわかったということです。本当にこの手の話はもう山のようにありますね。卒業生の2人ですのでそういう昔の話もできるんですけど、今日は「いしはら」か「いしわら」かということから始めます。石原と書いてどう読んでいいかまようというところですよね。私は祖父宅が石原にあったので、「いしわらのおじいちゃんち」と普通に言ってましたね。

隆 どうなんでしょうか 俗的にちょっと本質に入る前に 身近なところで「いしわら」と呼んでいます。あとは今、先生が言うように「いしはら」っていう標識があります。今はどちらかっていうと「いしはら」っていうものが何か主流なイメージになってますよね。

Navi 昔から「石原はいしわらに決まってるだろう」くらいの人もいるんですけれども,根拠は道路標識です。道路標識に土地の名前が書いてあるのが信号とかについていて、「Ishihara」って書いてあってそれを見たときショックでした。市役所に電話してしまいました。そしたら市役所の方にも「いしはらです」って言われちゃったんです。だから行政的にはもう「いしはら」なんですよね。「誰がいしはらって決めたんですか」って聞いたら「ちょっとそれはご存じかねます」って担当者は言って「国土交通省かなんかに聞いてみてください」って言われました。私はもうどうしても納得がいかなくて、町中の「いしわら」を探したんです。そしたら秩父線石原駅にありました。ひらがなで「いしわら」と書いてありました。当然小学校は私が校長をしていてですね、どっちなのって言われるから、答えなくちゃならなくて「いしわら」ですと言い続けました。実はこの話題は30年前に同じことを聞きました。当時私が石原小の教員でいたときに来間平八校長先生がいて聞きました。加余子さんが大好きな来間先生です。教え子らしいですね。どんな先生だったんですか。

加余子 すごく厳しい人でしたね。そう規律なんかもすごく厳しくて、みんな平等みたいなことを唱える人でした。荒川中学校で2年間担任してもらいました。おかげで歴史大好きになりました,

Navi  来間平八先生をご存知の方もいると思うんですけど。91歳で元気ですよね

加余子 私8月に会って感動しちゃいました。

Navi  来間先生に聞いたときは人物は「いしはら」で地名は「いしわら」なんだよみたいなことを言ってたんです。

最近,もう1回聞いたら、「どっちでもいいんだよ」って言われてショックでした。「どっちでもいいって小学校はどっちなんですか?」って言ったら「いしわら」でいいんじゃないみたいな、そんなゆったりとした答えでした。

隆 私は先ほど紹介の中で名乗ったけど、石原公民館長なんですよ。「いしわらこうみんかん」なんですよ。

Navi これがすごい重要です。市役所のホームページに「いしはらこうみんかん」って書いてある石原公民館は、公民館長さんが「いしわらこうみんかん」って言ってくれたんで,公民館は「いしわら」にしましょうか?

隆 うん、なんかそもそも人の名前が「石原」っていう名前で、代表選手は石原裕次郎とか石原慎太郎都知事だった石原慎太郎とか、今はかわいい石原さとみがいますよね。だからやっぱりこういうのに押されちゃうんですかね、やっぱり「いしはら」になっちゃいます。もう「いしわらさとみ」って言わないですよ。「いしはらさとみ」ですね。

Navi  石原裕次郎はなんか私の記憶では耳からは「いしわら裕次郎」って聞いてるのに,調べると「いしはら裕次郎」になってますね。

隆 だから原と書いて「わら」でいいんです。そういうやっぱりなんていうか表現の仕方もあるようですね。一番いい例とすると、「○○は」なんて「は」と書いて「わ」と読みますよね。

Navi  ラジオ聞いてくださってる方々はこれでなんか納得できたんでしょうか。私的には石原小学校の校長やってるときに子供たちに伝えるとき駅は「いしわら」って書いてあるから,学校も「いしわらしょうがっこう」ですよと伝えました。他は住所は「いしはら」って書いてあるから「いしはら」と伝えました。心の中にいろんな読み方があるのかなと思うんですけどここでバッサリ行政的に言っていただきましょう。加余子さんは前市役所勤めだったんですね。

加余子 市役所というよりずっと図書館にいました。

Navi  もう歴史の達人ということで,おしえてください。

加余子 行政的にというお話だとどういう感じなんでしょうか この原は「はら」と決めたんです。どこかで町名をやっぱり名づけるときに、どうしてもどっちかにしなくちゃどっちかっていうか,正確な名前をつけなければいけないっていう状況が生じますよね。そのときに、「いしはら」になったということなんです。他の県で同じ石原の漢字を書きながら,今言うところの「いしはら」であったり、「いしわら」であったり両方名乗っている市町村があります。

隆 だからどっちもあるよって言うんですよ。例えば太田とか高崎とか渋川に石原の地名があるんだけど、これは「いしはら」だけど、墨田区とか村上新潟の村上とか、熊本市にある石原って書くところは「いしわら」なんです。ちょっと深入りしてみました。

Navi  ありがとうございます。

加余子 どっちでもいいもあるんだけれども。私も石原に住んで,「いしわら」の応援隊の一部として紹介すると,皆さんおなじみの「小田原,大田原」(おだわら,おおたわら)ですよね。それから藤原さん名前で,「ふじわら」ですよね。

隆 それから荒川の河原じゃないですが、「かわら」ですよね。本当だ。それからあと、昔の方なら知ってるでしょうけど「吉原 花のよしわら」ですよね。

Navi  「ふじはら」って言わないですよね。

加余子 「いしわら」応援隊もいます。だって今、盛んに大河ドラマでやってるでしょ。

Navi  藤原(ふじわら)ですね。

隆  そう「わら」でもいいと思います。だから結論的にはまさに正解はないと思うんですね。

Navi  ということでこの番組が石原の読み方を決定づけるという歴史的な瞬間だったかもしれませんね。

隆  先生もまさに石原小学校の校長さんでいた時代に,この部分に触れまして読み方が違うってまさに身の回りの石原って感じがあったらその読み方を探してみようねっていう投げかけを子どもたちにちゃんとしてくれてます。

Navi  はい、ありがとうございます。今日はもう本当に歴史的な日になりました。「どっちでもいい」と,聞いていただいた方が納得していただけたというか、これが今日の結論ということになります

ここで、加余子さんから先にリクエスト曲をおかけしたいと思います。「君は天然色 大滝詠一」でよろしいですか。

曲 【君は天然色 大瀧詠一】

Navi  時刻は12時21分を回っています。AZ熊谷6階FMクマガヤ熊谷YZコンサルティングスタジオから生放送でお届けします。この時間はやわらか熊谷僕らが繋ぐ物語 第3回「いしわらかいしはらか」をお届けしています。

今日のゲストは平井夫妻に来ていただいております。こんどは「くまがや」か「くまがい」か、熊谷の読み方なんですけれどもこれちょっと聞いてみたいと思います。館長さんどうでしょうか。

隆  はい、そうですね石原はさっき言ったようにこれも結論は出ません。まず最初熊谷のこの地名の由来についてですが、これも諸説ありますよね。皆さんもいろんなところで聞いてるかと思うんですがいろんなところで学者さんたちがいろんな話をしてます。そういう中で、例えば熊谷って今、当て字的に熊の谷になってるけど、昔は「神の谷」ということで神って字を当ててるそうです。加余子さんの方が得意なやつなんですが、渡辺陽介さんっていう歴史学者がいて、その人がこの熊谷家文書、これ重要文化財なんですけれども、熊谷家の歴史が入っている文書の中で書いているんです。私達は熊谷次郎直実って言っているけれども、この熊谷家文書の一番、熊谷蓮生直実ゆずる、要するに自分の土地を息子に譲るよってこれが1号文書なんですけども、ひらがなと漢字で書いてあるんです。これを見ていくと、ほとんどが「くまがや」なんですね。熊谷(くまがや)次郎直実なんです。いつから「くまがい」になったかわからないけれども、文書はほとんど「くまがや」ですね。

Navi  「くまがや」なんですね。

隆 多分「くまがや」じゃないかなと思います 元々「くまがや」だけども今は「くまがい」になってきてると、わからない誰かが、例えば歌舞伎の世界だとかとか思っているんですけれども、「くまがや」の次郎直実じゃなくて「くまがい」の次郎直実って、名乗った方がかっこいいらしいです。

Navi  そうなんですね。「くまがい」の次郎の方がかっこいい。その昔の感覚は難しいですね。なんか熊谷は他の読み方もあるみたいですね。

隆 あとは「くまかい」とかもあります。それからあと昔は、谷って字を「や」と読んだってことで「くまかや」とか、石に刻まれている道しるべ等がありますが、そういう中にも、「くまがや」っていう言葉とか「くまがい」とか「くまがえ」「くまかえ」というのも出てくるんですよ。

加余子 漢字のものも多いんですけれども、ひらがなのものを拾ってみると、いろんな読み方が出てくるんです先生何が一番多いと思いますか。

Navi  はい「くまがや」じゃないんですかね

隆  その通り、ちょっと調査して昔図書館で本を出したことがあるんですが、道標の中で使われている表記として、「くまがや」31で、「くまがい」が2、「くまがえ」1つ「くまがやへ」1つでした。

加余子 そうですね。熊谷町とか熊谷市を、今名乗っているんだけど、やっぱり行政機関であるから、町を作ったときとかっていうのは必ずある名前をつけなければいけない。そのときにも当然「くまがい」が良いか「くまがや」が良いかっていう論議がなされたそうですが、結論的には今名乗っているように熊谷(くまがや)市ですよね。

Navi  加余子さんに、最後行政的には「くまがや」でよろしいでしょうか?

加余子 そう。だから市の名前は熊谷(くまがや)。

隆  今は、熊谷(くまがい)次郎直実では、「い」を使ってることが多いと思うんですが、最後に結論は出ませんが、もっと面白い表現があるって言いましたが、熊谷には「べー言葉」っていうのがあて「くまがや」がじゃなくて「くまげぇ」っていう「げぇ」表現もされますね。昔のお年寄りの方たちって、「くまげぇ行くよ」っていいかたするんですよね、だからまさに発音的にそれぞれが呼びやすかったり、あとにごったりするとかっていう言葉ですので、当然その人が発する言葉なんで、いろいろ各種生まれてくるので、いろいろ呼ばれるっていうのはそれでもいいんじゃないですか。

Navi  行政的にという言葉で「くまがや」が正しいで〆させていただきます。今日は、いろんなことが明らかになる時間になりました。ここでちょっとお便りが来ていますのでご紹介します。ラジオネーム石井姉妹さんです。「こんにちは。ラジオを新井スタジオで聞いています。せっかく平井夫妻に来ていただいているので、石原の読み方だけではもったいない。公民館での石原学の取り組みやふるさと教室のことを掘り下げて聞いてほしいです。」わかりましたが、たくさん聞いてたらもうすぐ終わっちゃうんですよ。許してくださいね。もう1つ来ています。いしわらっこ応援団元団長さんからです。「関根さん平井さんこんにちは、いしわらかいしはらかでドキドキしましたが、石原小学校のキャラクター「いしわらっこ」を改名しなくても良さそうなので良かったです。」ということでありがとうございました。ここで館長さんの今度はリクエストということで、山口百恵の秋桜ということで、お届けいたします。

【曲 山口百恵 秋桜】

Navi  時刻は12時34分を回っております。この時間はAZ熊谷6階FMクマガヤYZコンサルティングスタジオから、やわらか熊谷僕らがつなぐ物語、第3回「いしわらかいしはらか」をお届けしています。さあ先ほどからもだんだん深まってきたお話があるんですけども、なんか平井館長さんも元は市役所というか、図書館にお勤めだったんですね。

隆 学芸員ということで、そうです。

Navi  なんか平井夫妻は元々同じ職場だったという話を今ちょっと聞いちゃったんですけど.

隆 はい結婚したら、別れて私は市役所に

Navi   市役所に?そうだったんですか。それで館長さんは市報を作っていたという話も聞きました。

隆 企画広報課ってとこにいまして、市報も作ったこともあります。

Navi  そうだったんですか。本当に市報からこういう、石原学とか熊谷学とかっていうのは広がっていったらますます皆さん楽しくなるんだなって思ったんです。けれども、学芸員ってどんな感じのお仕事ですかね。

加余子 私は、図書館と言っても3階の展示室、あそこは今、大井さんがいますけれども、もう1人いるみんな学芸員です。展示をやってます。展示をしたり講座を開いたり、そういう仕事をずっとやってきました。

Navi  ここはラジオの展示室みたいなもんでよろしいでしょうかね。熊谷のことについて掘り下げていきたいんです。まず加余子さんに、打ち合わせで「鳥瞰図見た?」言われたのがびっくりしました。いきなり鳥瞰図から入ったので、鳥瞰図って何だろうと思っていたら、駅の北口のところにあるものですね。

加余子 先生、あそこ皆さんは北口って言いますけれども、そこは正面口です、

Navi  はい、私、北口って言っちゃってます。

加余代子 行政的にも正式に正面口で言ってます。鳥瞰図というのは、鳥が空の上から地球を地面を見たときに、何か覗いてみるみたいな、俯瞰してみるそういう目で書いた地図っていうことですね。鳥瞰図の第一人者が京都の吉田初三郎っていう人だったんです。ものすごい人です。その方が書いた絵が正面口あるんです。本物の絵は、今図書館にあります。昭和57年に上越新幹線が通る駅になるということで、駅の改修をしました。その記念に正面玄関を飾るレリーフとしてつくられたのです。あれは焼き物なんです。

Navi  昭和57年からあったんですか。なんか私は最近って言ったら申し訳ないですけどね。平成から令和にかけて気づきました。

加余子  この鳥瞰図っていうのは、熊谷が熊谷市になった記念、昭和8年に市制が引かれるわけですけれども、その記念に書いてもらったものなんです。出来上がったのが昭和11年ですから、昭和10年頃の熊谷の町が、しっかりあれに書かれているわけです。よく見てもらうといろんなことが書いてあるんです。

Navi  ラジオを聞きの皆さん見たことありますか?私改めて放送もあるので、今日じっくり見たらですね、びっくりしました。いろんなことをいろんなことが書いてあります。見て良かったです。

加余子 昭和57年に作ったときに制作と取り付けるそれで1500万円かかってます。大きさは長さ10mあります。高さが2m30センチあります。

Navi  熊谷の鳥瞰図はわかったんですけど、これ石原学と何か関係あるんですか。

加余子 はい。鳥瞰図の右の下の方を見ると大きく石原って書いてあるところがわかりますか?秩父鉄道の石原駅が描かれています。そこを見てもらうと、それは工場がたくさんありますよね。

Navi  ありました。びっくりしました。あんなに工場があったんだって。今は、工場っていうかなくなっちゃってなくなっちゃいましたよね

加余代子 っていうのは要するに熊谷市が合併したときに、熊谷町の方はまだまだ商店がいっぱい並んでる宿場町です。だけど石原は中山道の周りに家があるぐらいで、ほとんどが桑畑か田んぼだとかそういうものだったわけですよね。だから、大きな工場が誘致できた。熊谷気象台が石原にあります。これがすごいですね。石原小学校と向かい合うようにして東門の前に蚕業試験場があって、蚕業試験場の隣に気象台があります。蚕(かいこ)の試験場ですよね。その二つの施設がこの鳥瞰図にもよく書かれているんですけれども、県に一つしかない建物っていうのは普通、県庁所在地にあるんです。

Navi  気象台がなんで熊谷にあるんですかって答えられなかったです.

加余子 そもそも、県庁所在地じゃないのに気象台があるのは、日本中で4ヶ所しか四つの県しかないんです。

Navi  そうですか。はい。

加余子 だから埼玉県は熊谷で千葉は銚子、滋賀県は彦根、あと山口県は下関にとその四つだけなんです。だけど熊谷以外はどういう理由でそこに気象台ができているかということはわからないんですけれども、熊谷には大きな理由があるんです。米とならんで蚕を飼うことが盛んでしたから、桑を実際に蚕にあたえ始めるのは4月末から5月が始まる頃なんですけれども、その頃には晩霜って言って霜が降りると蚕の唯一の食べ物の桑がダメになってしまうんです。それが浦和の方に気象台があったのでは、蚕の盛んな県北部までなかなか連絡ができないんですよね。気象が合わないですよ。そういうために熊谷にどうしても必要だったんです。北部の養蚕の地帯を見下ろすというかみんな見渡せるところに作られた。明治29年12月1日からその観測が始まったわけです。

Navi  これ熊谷県とか関係ないんですね

加余子 熊谷県よりもっと後の時代ですね。熊谷県は明治6年から明治9年です。その後です。何しろ石原は養蚕が盛んだったんです。盛んだっていうのは中山道17号国道ですよね。それとあとは秩父街道140号線と国道が通っていて集まるところに会社もできる。あとは広いところがあるから桑がたくさん作られて、蚕がたくさん飼われていた。一つ誇れるところは、本来なら全てが県庁の浦和にあるべきだっていうものが熊谷石原にあるってことなんですよね。だから気象災害の予報をいち早くキャッチしてきた情報を聞くと、夜通し村の人たちは古タイヤなんかを燃やして桑が凍らないようにしていたそうなんです。そうそう。それとあとは気象台が有名になったのは、日本一41.1度を観測したこと2018年7月23日。まだ破られてないはずです。

Navi  暑いまち熊谷ですよね。加余子さんもやっぱり破られたくない的な感じですよね。今日も石原小の子がまたラジオを聞いてるかもしれません。石原に気象台があるのも自慢ですよね。

加余子 埼玉県の蚕業試験場が熊谷にあります。それも蚕業試験場というのは、日本で数えても全部の県にあるわけじゃないんです。北海道と沖縄と大阪、その三つの県には蚕業試験場がないんです。だけど蚕業は国策でだったんですよね。蚕を育てて生糸を作って外貨を稼ぐ。そのためにはやはりどうしても熊谷にも繭が集まる交通が便利だから熊谷に作りたいっていうような熊谷の人たちは土地を寄附して誘致したんです。蚕業試験場があって埼玉県は日本でも繭の生産量は群馬、福島についで当時3番目だったんです。

隆 蚕業試験場っていうのは重要な拠点というか、ちょっとすごかった。石原小学校の隣だったんで、まさに学校に行ってた頃、隣で遊びました。

加余子 国策の話から言うとできた繭と生糸とかそういうものを秩父線の石原駅から熊谷駅へ持っていって、それから横浜まで運んだ。これが1本に繋がるんです。交通の要所だった。石原駅まで持っていって、だから石原駅は広いでしょう。貨物がいっぱい入るので。熊谷は「蚕の都」って名前をつけているんですが、かつて図書館の展示室等でもちゃんとコーナーを作っていたりするんです。

隆 基本測候所にしても、試験場にしても、それからその他施設にしても改めて鳥瞰図にはそういうものがいっぱい描かれているんです。

加余子 この正面口のところに足を止めてこの鳥瞰図を見ていただくとまだ他にも出てますね、小学校こんな大きいですよ。

Navi   本当だ、(エンドテーマがながれる)あっという間に時間が経っちゃいました。本当は聞きたいこととかとたくさんあったところなんですけどもね。いやさすがやっぱり石原学事典ですね。

隆  先生も石原小学校の校長だった時扱ってましたが、石原小学校で石原かるたを作ったことがあるんですよね。その中でも今日触れてきた内容のカルタがあるんです。まず、石原の話ししましたよね。言葉でもって「荒川が流れてできた石原の地」それと測候所の話題については「雷雲に予報を気になる気象台」そして最後の産業試験場については「蚕を育て研究した産業試験場」っていうかるたになっています。

Navi   そうですね。これだけでもいっぱい話ができちゃいます。本当に今日もあっという間に時間になっちゃいました。今日は「わからなかったら聞いてみな!石原学事典の平井夫妻」に来ていただきました。また来てください。

平井夫妻  はい。

Navi    今日は本当にありがとうございました。

平井夫妻 こちらこそ今日はありがとうございました。

【エンドテーマ 僕らがつなぐ物語 有梨】

以下 AI nottaによる要約

この放送は、熊谷市の石原地区の歴史や文化について議論しています。 主なトピックは、「石原」の読み方の違い、熊谷の地名の由来、気象台や産業試験場などの施設の歴史的背景、石原小学校の思い出などです。 ゲストの平井夫妻は、石原公民館長と文化財保護審議委員で、石原の歴史に詳しい専門家です。 放送では、石原と熊谷の歴史的な側面を掘り下げながら、地域への愛着と誇りを感じさせる内容となっています。

Q&A

Q: いしわらかいしはらか、どちらが正しい読み方ですか?

A: 正解はありません。行政的には「いしはら」と決められていますが、地域によって「いしわら」と呼ぶ場合もあります。

Q: 熊谷の地名の由来は?

A: 諸説あり、「熊」の字を当てた説、渡辺陽介氏の説など様々な説があります。

Q: 気象台が熊谷にある理由は?

A: 桑の栽培が盛んだったため、晩霜の予報が重要視されていたからです。

Q: 蚕業試験場の役割は?

A: 農業、養蚕業の研究や指導を行う施設で、埼玉県の生糸生産を支えていました。

Q: 石原小学校の思い出は?

A: 校長時代の写真や資料から、地域の歴史を学びました。子供たちに「いしわら」と教えていました。

行動項目

正面口の鳥瞰図を見直す

石原学カルタを活用する

平井夫妻を再度ゲストに招く