
9月29日(月)12:00~12:54 FMクマガヤ 梅林堂提供 やわらか熊谷~僕らがつなぐ物語~ 第52回は?「タウンタウン熊谷とさきたま新聞」
ゲストは 平成の熊谷の歴史と言えばこの方 ライターの小川美穂子さんです。かつて熊谷のタウン誌と言えば「タウンタウン熊谷」作成に関わり、いろいろな熊谷の人物やイベントにかかわってこられた小川さんからでてくるワードは宝箱です。そして「さきたま新聞」をつくり、現在はweb版「さきたま新聞」日々更新しています。酒々井町と熊谷市を行き来する小川さんから熊谷の近世を聞きながら、これからの熊谷についても考えていきます。果たして生放送で熊谷の変遷を組み立てられるか?私の手腕が問われます。どうぞお楽しみに!
AInottaによる文字起こし
Navi 時刻は12時を回りました。AZ熊谷6階FMクマガヤYZコンサルティングスタジオからお送りします。月曜のお昼は梅林堂提供 やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語 今日は第52回ということですね。タイトルは「タウンタウン熊谷とさきたま新聞」ということで、このタウンタウン熊谷とさきたま新聞に大きく関わっていらっしゃるライター小川美穂子さんに来ていただきました。こんにちは。
小川 こんにちは。よろしくお願いします
Navi いよいよ今日は、熊谷の昨今というか、平成から最近の熊谷というか。
小川 うん。そうですね
Navi 熊谷の様子を、熊谷事典ということで、今日小川さんにお話を伺いたいんですけど、
小川 間違いいっぱいの事典かもしれませんが、よろしくお願いします
Navi 最初から言わないでくださいね。ライターっていう紹介の仕方でよろしいでしょうかね。
小川 はい。ちょっと考えたんですけども、でもやっぱり私は書くことが好き。それから、そのように私を育ててくれた親と熊谷という街、それからタウン誌、そういうものを含めてライターで、さらに未来に向かってもライターっていうことで
Navi それでよろしくお願いします。まず今日のテーマになってるうちの一つのさきたま新聞っていう、紙のイメージなんすけど、現在小川さんの書いているwebの「さきたま新聞」っていうブログは一体どうなってるんですか?
小川 どうなってるんでしょうね。一時期「全部やめだ」とか思ったときもあったんですけども、やっぱりあまりにも毎日いろんなことが私、あるいは街の周りであるので、それを基本的に「自分が見たことを、聞いたことを伝えたい。」それから「自分も含めて何か行動に起こしたい」そういうつもりで、このところ頑張って、更新してました。そろそろゆっくりにします。
Navi 私びっくりしたのは、更新のスピードと内容と量です。全てがびっくりしました。というのは1995年ぐらいから、自分もずっとウェブに関わってきてたくさん更新するのがいいなって思って、石原小学校の校長やってるときは4年間365日毎日更新するっていうことを目標に生きてきたんですけど。
小川 昨日見ました。
Navi ありがとうございます。小川さんの「さきたま新聞のブログ」は一体もういつどこで更新してるのかわからないぐらいのすごいスピードだったり、内容も多岐にわたってたりしてますよね。
小川 たまたま私は歳をとっていって、それからいろんな人と繋がれていて、本当にラッキーで幸せなんです。それを見たり聞いたりすると、私だけじゃなくって他の人にも伝えたい。「こんなに素敵な人がいる。こんな素敵な美味しいお店がある。」そうするとやっぱり私だけ知ってるのはもったいない。それで馬鹿みたいにやってます。
Navi とにかく、スピードっていうのは、朝あった出来事がもう昼前には上がってますよね。
小川 たまたまじゃないですか?
Navi それからいろんな写真があって、視点がいろいろなんですよ。結構真面目なことから、なんか日常的なことがらっていうのがあって、これがまさにそのタウン誌の記者の目線なのかな。だから最終的に使わないものもあるかもしれないんですけど、常にどういうところに、目が行っているのかとかどういう人と会ってるのかっていうのが、手に取るようにわかるというか。
小川 さすが先生 見ててくださって
Navi 本当にびっくりしました。悪い言い方をすると「ホームページジャンキー」ホームページの、更新については、かなり本当にいろんなものを取り込んでいて、とてもかなわない。内容的に見たら、なんだろうな。何かトピックスというか
小川 言い方に困るでしょ。
Navi いろんなものを拾ってるっていうのがわかって、しかも小川さんは、熊谷にいて、どこでもいらっしゃるじゃないですか。イベントとかに。
小川 どこでもじゃない。「今、体が2つあったりしたらいいとかよく言うでしょ、私は本当いつも不義理もいっぱいしていて、だから行けないところもいっぱい、それからまず車の運転も下手だし、普通の人が普通に行けるところ行けなかったりするし。でも「絶対行きたい」と思うとなぜか行けるし、なぜか誰か乗せていってくれるし。そういう意味で、とってもラッキーです。どっちかっていうと、多動に近いんですけれども、何か気が済まないんですよね。昨日も誰かに言ったけど、好きなところには行っちゃうんですね。失敗もいっぱいあるけど、なんかそれも含めて、それを伝えていきたい。私はFace Bookだけで、インスタもXもしてないんですけれども、本当はそっちができたらもっと若い人たちと繋がれると思う。それでも私の場合は直接行くって、その顔を見る、あるいはコーヒー飲む、食べる、リアルを心がけていてというかそれしかできないので、そんな感じです。
Navi とにかくいろんなところに行くって言っても、結構、熊谷とかに特化してるのが私は嬉しくて。やはりタウン誌の方で、ずっと熊谷のことを見てくださっていて、このペースで何年もやってきたじゃないですか。ですから熊谷のものすごい量とものすごい幅の情報がある。それがこのブログのすごいところです。
小川 違うんです。山と谷がありまして、今はどっちかっていうと山です。この夏がエポックメイキングな夏だったので、すごい伝えたいことが、いろんな意味でありました。谷のときもすごいあります。だから、更新できなかったときもあるし、そうすると「もう、もうやめちゃおうかな」みたいになるけど、なぜかまた何か書きたくなっちゃうんですよね。
Navi 熊谷のことを定期的に見てるブログ。熊谷を紹介するブログやHPで老舗は、大和屋のくまがや館さんの熊谷ネットさんとか見栄子さんのブログです。そして、そして小川さんの「さきたま新聞」です。元々はインターネットが始まった頃でもやっていた「タウンタウン熊谷」がやっぱり老舗ですね!
小川 そうですね。インターネットが出る前からです。
Navi インターネット前からですよね。タウンタウン熊谷というタウン誌に出会って。タウンタウン熊谷は私が教員になったばっかりの1988年創刊ですよね。その頃は独身で熊谷に住んでいてまだ実家に住んでいて、新聞と共に届けられるタウンタウン熊谷が大好きで朝からずっと夢中で読んでたんですよ。月に1回ですよね。今インターネットを探してもどこからもバックナンバーも出てこなくて、、、でも今日、小川さんにお持ちいただいて、見たらもうむちゅうになっちゃって、内容的には完全に「熊谷図鑑」ですね。
小川 「タウンタウン熊谷」っていうのは「そんなの知らないよ」っていう人はほとんどですよね。だけど作ったときには、朝日新聞の販売店で、当時熊谷では朝日新聞のシェアがとても少ないので、「どうしたら新聞の部数が伸びるか、販売部数が伸びるか」っていうことで、岩田新聞舗っていうとこで出したんです。その頃は、新聞っていうものの意味がありました。現在は私も二拠点生活で新聞とってないですし、新聞の意味もだんだん薄れてきています。そんな中で今でも「タウンタウン熊谷」はとても好き。あの頃とっても面白かった。そういう時代ですね。
Navi そのタウン誌っていう役割を、FMクマガヤは放送で今やっていると思います。声のタウン誌ですね。今でも「NAOZANE」とかっていうタウン誌っていうのはあると思うんですけども、今このタウンタウン熊谷を見てみると、現在大活躍してる人たちの若かりしときの写真が載っていたり、やはり昔大活躍して亡くなっちゃった方のことが載っていたり。記事は確かな目で作られていて熊谷のお店も今老舗と言われてるお店のことが書いてあったりとか、隅から隅まですごいです。
小川 当時、街もとっても元気だったし、新聞の販売店の長がスポンサーとしていてくださって、私達ママさん記者で、みんなでカバーし合って作っていた。子供もいるのに、私は保育園も、学童もお世話になったし、そういう中で、またそれもネタにもなるし、生きてることそのものが、ネタです。その中でタウンタウン熊谷の編集長平さんが私たちを育ててくれました。
Navi 私最近知ったんですけど平(たいら)さんじゃないんですねなんですね。平(ひら)さんなんですね。
小川 平(ひら)ですね。今は尾道に戻ってます。
Navi 当時、平さんってすごいんだなっていう印象です。私もどこかで1回ぐらい記事に取り上げてもらったんだと思うんですよ。内容は全く記憶にないんですけど、例えば今持ってきてくださったタウンタウン熊谷の表紙は、1991年1月1日発行熊谷人物往来。そこにある表紙はラグビーで日本一を目指す堀越正巳 弘二さんでいいですか。有名な堀越さんですか。現在は立正大学のラグビー部の監督になった。この方の本当に若いころ、熊谷工業高校時代の写真が表紙を飾り、そして1枚めくると、「今年こそ優勝だ。花園に燃える熊谷工業ラグビー部」って書いてあって、当時の森監督とかね、塚田先生とか、そういった方が出ていて、ラグビーのことから始まって、「熊谷は住みやすい街ですか」とか。国際交流協会の話、
小川 とにかくいろんな視点がありましたね。だから毎月1回編集会議やって、こういうことがあるよってみんなでこうやりたいなっていうのを出して、「これは駄目、あれは駄目だ」みたいに言われまして、それが毎月の編集会議でした。実は私ラグビーがすごく好きでラグビー場は「西の花園、東の熊谷」ということでラグビー場ができた頃、それもみんなで手分けして取材して学校も行きました。中学校・高校にいったり、ジャパンの合宿に行ったり、もう何だか夢中でやりましたね。
Navi 熊谷に来た時は、ラグビー知らないけどそこからスタートだったんですね。
小川 知ってはいたんですけどね。ただ「ジャパンの合宿」とか「誰それが来る」みたいなところで、駅で林選手とかを待ち構えていて、、、今はないホテルサンルートに泊まっていたんです。とにかくラグビースクールも面白かったし、熊谷っていえば、ラグビーでしょっていうのは、今ももっともっとやってもらいたいです。
Navi ちょっとすいません。話を戻しますね。
小川 はい、ごめんなさい。
Navi 小川さんが熊谷に来てっていうのはわかりましたが、熊谷に来る以前の話ですが、生まれはどちらだったんですか
小川 生まれは東京都の昭島市 それから小金井市、千葉県の八千代市、それからもうちょっと奥の成田と佐倉の間の酒々井町っていうところに行って、熊谷に住む前に深谷の川本にもいたりしたんです。引っ越してきてタウン誌は私も好きで読んでたんですね。こんな面白いものがあるのならって、さっき言ったママさん記者ですけども、「編集記者募集!」に応募して作文書いて、そしてこちらにお世話になりました。
Navi なるほどこのタウンタウン熊谷はあったんで熊谷に来たということでよろしいですか
小川 じゃなくて、その前にライターとしては地味な仕事をしてました。でも「やっぱりやりたいな」と思ってトライしました。
Navi ちょっとまた話戻しますけど、さっき出てきた途中に、酒々井町ってあったんですけど、私「酒々井町(しすいまち)」読めなかったんですが、酒々井町って書いて「しすいまち」と読むんですね。小川さんは酒々井町と熊谷を行ったり来たりしてる状態ですよね。失礼ですが言っていいですか?
小川 うん、どうぞ。
Navi 回遊魚です!(笑)
小川 私電車乗ってるの大好きで、何もやらなくていいじゃないですか
Navi そうですけど
小川 それがすごく好きですよ。
Navi もう自分も、あっち行ったりこっち行ったりしていて回遊魚ですが、小川さんにはかないません。酒々井町にいたと思ったら熊谷にいらっしゃって、そしていろいろなことを、いろんな場所に行って常にフットワークが素晴らしいです。当時はいろんな方々との関わりがあって、ママさん記者になってこのタウンタウン熊谷をやり始めたということでよろしいですか?これが何年ぐらいだか覚えてますか。
小川 1994年だと思うんですけど、だんだんそういうこと履歴書に書いたり全部書いたりしてたんですけど昔のことはほとんど忘れてます。
Navi でも1999年にはいましたね。
小川 はい。
Navi またこれも持ってきていただいた1999年1月1日発行のタウンタウン熊谷ですけども、この表紙をめくってみますがラジオだから聞いてる人は見えてないんです。だから「タウンタウン熊谷」っていう言葉しかラジオでは流れていないんです。知ってる人には表紙の「タウンタウン熊谷」っていう文字が浮かんで見えてると思うんです。でも知らない人にとっては全くわかんない。解説しますね。表紙を開くと、タウンタウン熊谷「熊谷の100人」っていうのがあったんです。これは熊谷の有名人を特集していて、毎号出てる方々が100人集まったってことですよね。この「熊谷の100人」っていうのに出たかったんです。教員時代、私の将来の夢は「熊谷の100人に掲載されること」ってずっと思ってきたんです。ここに出ている人の名前をみると第1回は俳句の金子兜太さんからスタートして、書道の野口白汀先生、画家の大野百樹さんとか ラグビーの堀越さんですよね。それからもういろいろ出てきて芸術とかスポーツ関係ですけども俳優の相島さんの若いときとか、政治家の方もいれば、中には音楽の先生だった関口先生とか、私の友達のお姉さんの声優江森浩子さんとか、身近で、そして有名な人とかって入ってて、やっぱりこの100人はすごいです。そして中にJ-walkの杉田さんまで入っていてまさに「熊谷人物図鑑」でしたね。もしかしたら今の私の原点はここにあったと思います。
小川 当時タウンタウン熊谷の留守番電話は重要でした。編集長はそんなに来ないし、私達も取材に行っちゃうから、誰もいなくなると留守番電話にしておくんです。それでかかる曲がJ-WALKの「何も言えなくて夏」でした。杉田さんと言ったのは、今ピンクリボンの代表で「埼玉新聞」タウン記者の栗原和江さんなんですけども、留守番電話をセットして、そしてノートを置いておくのです。誰かがいれば電話を取って「こういう電話がありましたよ」って書く、そういうシステムでやってました。
Navi だからJ-WALKの杉田さんが熊谷の誇りと言ってよろしいですかね。誇りの人が当時の「熊谷の100人」だったんですけどね。今、市報「くまがや」の一番後ろのページに「夢追い人」っていうのがあってあれもなんかそれに近いなって思います。「新熊谷の100人」として若い人があれに載れたらなって思います。タウンタウン熊谷っていうこの伝説のタウン誌をやられていたのが小川さん。
小川 何人かの仲間で、ママさん記者をやって、ビルの一番上にお座敷があって、そこで子供たち遊ばせたり、うちの娘なんかに「ちっちゃい子をちょっと見ててね」みたいに言ったりして楽しかったですね。でもシビアでしたね。本当に絶対ひと月1回全部書かなくてはならない締め切りがあって、そのころデジカメないですから、普通のカメラをそのとき私初めて持ちました。もう1回撮り直しとか、原稿は全部真っ赤になる。さすがにその頃はワープロでした。
Navi タウンタウン熊谷のバックナンバーはインターネットでは絶対に出てこないので。これを機にちょっともう1回
小川 一度やりかけました。でもまとめかけて挫折しました。
Navi 放送を聞いて、「タウンタウン熊谷を見てみたいな」と思った方、今見ると本当にこの価値がわかります。熊谷市立図書館にはバックナンバーがあるということで、それを聞いたのがすごく良かったなと思いました。ではここで曲に行きたいと思います。落陽ですね。
小川 はい。
Navi なんでこの曲なんですか。
小川 吉田拓郎が大好きで、去年亡くなった仲間がいて。
Navi はい。
小川 気仙沼とかに行った気仙沼に熊谷桜を植える会の仲間なんですけども、彼がいつも落陽をこの局にリクエストしていました。彼に捧げます。
Navi では吉田拓郎の落陽お願いします。
【曲 吉田拓郎 落陽】
Navi 時刻は12時25分を回っています。やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語 第52回「タウンタウン熊谷とさきたま新聞」をお届けしています。今日はライターの小川美穂子さんに来ていただきました。
小川 はい。後半戦よろしくお願いします。
Navi 熊谷事典の小川美穂子っていうことで、いろいろ聞いてきたんですけどタウンタウン熊谷の話をもっとしたいところなんですが、今度は「さきたま新聞」という紙の新聞のことです。これがスタートしたということなんですけど、いつ頃からスタートしたんでしょうか。
小川 創刊号が、2006年3月なってますね。2006年が何年だか今計算できないんですけども、何でそれをやったかっていうと、タウン誌がまだあった段階で私はやめました。何もやってなかったんですけども、それを終えていろいろやってたときに、まず鹿児島寿蔵っていうことに出会ったりして、少しずつ書くことにまた向かっていたんですね。それで、昔、熊谷市で「あついぞ熊谷」の補助金をいただいて。10万円で、「あついぞ」だったら、それは熊谷空襲だよねっていうことで埼玉(さきたま)文学倶楽部っていうんですけども仲間と共に1冊本を出しました。それが終わってから今度やっぱり何か自分でやりたいっていうときに、新聞だったんですね。さっき先生、紙の新聞って言ってましたが、私も紙の新聞って言ったんです。私「新聞配達おばさん」とか言ってたんです。何気なくね。昔新聞ってみんな配達してたでしょ。それで私は自転車の方が好きなので、だんだん昔の知り合いとか読んでもらいたい人、それから市立県立図書館とかさいたま文学館とか、多いときで800ぐらいとか印刷して、新聞配達もやってたんです。
Navi このさきたま新聞は800ぐらいを印刷して、それを配達もしてたんですか。
小川 送るのはメール便でも送ってるんですけども、「この人には会いたい。この人のお店には行きたい。これはちゃんと直接持って行きたい」からみたいなので、新聞配達おばさんとかって言われましたけども、だんだん出せなくなっちゃったんですけどね。
Navi この「さきたま新聞」ってね、名前が「さきたま」だからね、埼玉とか行田とかっていうイメージなんですけど、中身はほとんど熊谷ですよ。
小川 なんだけど一応、深谷とか映画が好きだから深谷。それから「さきたま」って言う昔の呼名っていうんですか。それも意識して行田もいくつか行ったりしたし、一応あえてこだわってひらがなで。そうするとどこか行ったときに「埼玉新聞ですか?」とか言われて「いや違うんです」って返して、「そんなあれじゃないですただのマイナーな新聞」と言っていました。
Navi だからさきたま新聞っていうのは、「さきたま」という名前でありながら編集室は熊谷市にあって、内容はやっぱり、他のところもありつつも、私が見ている限りでは、ほぼ熊谷の内容で、タウンタウン熊谷からさらに内容が深くなったと思います。
小川 そうですね。1人でやってるから全部、写真も撮って書いて、イラストレーターで新聞作りしたりするのは相方がやってくれてたんですけど。そんなにあちこちいけないんですよ。そしたらそれを深く書くしかないし、書きたいから。
Navi 例えば創刊のところに出てきている「薄れゆく昭和20年、熊谷の夏新たな光」っていう。この本がスタートのところで、その後の中身もやはり空襲の話とか中島飛行機の何とかっていうが書かれていたり、忘れ得ぬ夏、薄れゆく夏のことについて書いてあったり、やっぱり内容が深いと思います。
小川 第1号2号また次からはちょっと違うんですけど、私が行けたところ、足を運べたところ、そういうことで好きに書いてました。あとやっぱり私は人が好き。それから本当は偉い人っていうかね。それより職人さんが好きなんですね。あと、昔はわかんなかった神社仏閣、タウンのときは神社仏閣とかあったんですけど、編集長が担当してたんです。私は全然知らなかったです。それから言っちゃっていいかな。お祭りのことも直実さんのことも全く何も知らなかったです。
Navi でもこのさきたま新聞をやり始めたら
小川 勉強しました。
Navi ムサシトミヨのことも書いてあり、それから佐谷田の何とかっていうのが書いてあったり、長福寺が書いてあったり
小川 昔「久下」に住んでたから。でも結局は直実慕情になっちゃうんですよね。
Navi 「直実慕情」が出てきましたね!「直実慕情」という本があるのに私はびっくりしました。なんですかそれは。
小川 はい。それ編集長 平ですね。平秀子っていう人間がタウンタウン熊谷の初代の編集長で、2代目が今ピンクリボンで頑張ってる戦友、この言葉は使うのは嫌なんだけどそれしか言う言葉がなくて、栗原和江さん、もうみんな編集長に叩かれ、原稿は真っ赤に直され、病気で「お大事にね」とか言われながら、「で締め切りは?」みたいに言われる中でそこを戦えた「戦友」なんですけどね。はいそれで直実慕情っていうのは「直実公800年遠忌」っていうのがありました。
Navi ちょっといいですかね。解説しますけど
小川 はいどうぞ
Navi 斎藤実盛公には「実盛慕情」っていう歌とか踊りがあるんですよ。びっくりしたのは「直実慕情」っていう本があるということなんですね。そしてその直実慕情はその800年忌っていう節目に作られたということでよろしいですか?800年忌っていうのは直実公がなくなってから800年たって、そして熊谷寺でイベントがあったっていうんでよろしいですか。
小川 はい。
Navi そこにも関わってらっしゃるということで
小川 当日だけ関わったんですけどもそのときはとにかくいろんな、重竹先生、横田透さん。それから新島章夫さん、黒沢茂さんとかそういう人たち 田野隆広さん、あるいはごめんなさい今落としてる人がいたら実行委員長は木島一也さん、権田清志さん、宮地豊さん、松本邦義さん 平井隆さん、米山士郎さん、栗原弘さんとか」。要するに800年遠忌をどういうふうにやるかっていうことをやって、そして記念の冊子を作ったのが、平秀子でしたね。そしてそのときに、直実さんがたどった全国何ヶ所かの伝説の、あるいは歴史の史実の街を1つずつ訪ね歩いたっていうのを最初タウンタウン熊谷で連載してたんです。一番が熊谷寺で 次はどことかとか、その一つが気仙沼だったんですね。
Navi 直実の聖地と言われる場所を、あちこちにお寺を、直実っていうか蓮生坊が作って回ったっていうことそこを特集して、タウンタウン熊谷には作ってあったということだそうです。毎回それをメインの企画で初期は一番初期のときはやってたんですね。
Navi 格調高いですね。そういうのもまとめて作ったのは、「直実慕情」
小川 他にももちろんまとめてるんですけど、そのときが結局雨だったんですけど。
Navi 私も覚えてます。800年忌のときに雨だったっていうのは私がなぜ覚えてるかっていうと、そのときに熊谷西小学校の教員をやっていて、西小学校の6年生だったかなと、一緒にその800年忌に合わせて、「直実節を熊谷寺の駐車場で踊る」っていう企画があったので子供たちとしては練習してたんですよ。もう私は楽しみにしていて、もういつ出られるんかなって思ったら雨だったんで中止になっちゃったんです。
小川 私はそのとき知らなかったんです。それで熊谷寺の中に銀座の山車を入れて、それからあと栗原宮司さん。昔のうちわ祭りの宮司さんや國學院の関係とか、そういうことでいろんな方々が動いてくださって、そして「直実・蓮生まつり」ができて、八木橋の外で物産展もやってとか、そういうそれでいろんなことをやったんですけども、次が気仙沼になるわけですね。
Navi 気仙沼に行くっていうのはゆかりの地が気仙沼にあって
小川 あった。
Navi はい。そして今度は桜ですね。
小川 そうなんですけど自分たち歌舞伎にいっちゃっていいですか。2011年3月11日そのときも私全然意識してなかったんですけども平が「気仙沼が!海が燃えている」「ガスタンクとかも爆発してすごいことになっている」と言って2011年の6月には平はいろんな物資とともに熊谷桜をもって復興支援に行きました。
Navi それはその復興支援のためにも桜を持って、思わず行ったということですかね。
小川 そういうことですね。その前に国立劇場で一「ノ をトル」谷嫩軍記の歌舞伎ですね。「熊谷陣屋之場」っていうのですけどもそれをやるっていうときもみんなで例えば、後藤真太郎さん なんかが混ざってくださって、そこの国立劇場の売店で何を売るみたいな、あるいはバスを仕立てていくみたいなそういうこともありましたけども、その上で2011年3月、3.11の復興支援地歌舞伎公演になったわけです。夢のような話っていうことでまた別の話になっていくんですけども、熊谷「歌舞伎の をトル」歌舞伎の会、一番中心になってるのが実盛の歌舞伎もやってる長島利夫さんですけどさっき直実慕情のコアなところで落としちゃいました「歌舞伎をやりましょう」っていうことになったんですよ。気仙沼市民会館で、その歌舞伎をやるっていうことで、また突っ走る。
Navi それも復興支援ですよね。皆さんは、直実公がそういう場所にはせ参じた方と同じですよね。
小川 あの直実さんの孫の熊谷直宗公が気仙沼を統治したっていうそういうことも私も全然知らなくって、例えばそういう旅行っていうか、向こうに行く前に熊谷寺の中で平が講座を受け持って、そういうご縁で熊谷と気仙沼400年400キロっていう、そういう括りで言いましたけども、とにかく平はいろいろあのパンフレットとかそういうのを作っちゃうんですね。形に残して直実慕情の次はその歌舞伎の公演に向けてのパンフレット。そういうことで、私ももう全然気仙沼のことなんて考えもしてなかったのが繋がりました
Navi たくさんの方々がそういうのを機に、熊谷の先輩方が集結して、
小川 そうですね。
Navi すごいエネルギーだったですよね。そういう場所に小川さん。おられてっていうことですよね
小川 はい。だからそのさっきも言ったように最初の祭りやったときとか、栗ちゃんが2代目の編集長でやってたときは私はいないんですけども平と一緒にもうみんな、みんなそうなんです。巻き込まれていくんです。もうそんなこと無理でしょみたいに思いながらもやる。それが歌舞伎ですね。そのとき虎舞っていうのも、あの気仙沼で見ましたけれども、気仙沼の方々は結局支援じゃないんです。全然、私達の方が元気いただいている
Navi なるほど、そういう集まってくれた方の中で、自分は今お話聞いて考えると、やはり熊谷愛の強い方々が、たくさんいらっしゃってたのが分かりました。
小川 重竹先生がよく言うんですけど「熊谷人」って言うんですよね。「熊谷は民のまち」って、まさにそのとき、歌舞伎をやった次、横田さん中心の「気仙沼に熊谷桜を植える会」っていうそれで、それが10年たって、昨年千龝楽です。
Navi 熊谷桜の話を妻沼のサロンでやってるとこ私も写真展みたいなのを見さしていただいて。
小川 そう。だから熊谷桜は妻沼のJAにもあるし、あと他にもあるんですけど熊谷桜っていうものがまた一つのコアの桜やっぱり日本人の思いが「コノハナサクヤヒメ」、お米の文化とかにも繋がってきます。
Navi まさに本当に最近の、詳しく800年忌の頃の話って、そういうことがあったとか、もう一度皆さんに次の皆さんに知っていただきたいです。直実慕情があったとか、熊谷寺でいろんなイベントをやってたっていうことももう一度皆さんに知っていただきたい。まだいっぱい他にも、そう思いとかそれからやったことっていうのはあるとは思うんですけどね。小川さんにここでもう一度聞いて、自分でもどういうことがあってどういう方々が関わってたんだっていうのを改めて勉強する意味でちょっとお話を伺ってきました。ここで2曲目のリクエストいただきたいと思うんですけれども
小川 ユーミンの「ひこうき雲」なんですが、私達が若い頃フォークとかニューミュージックっていう言葉が出てきたところ、いまでも胸がキュンとなります。
Navi ユーミンの「ひこうき雲」お届けします。
【曲 荒井由実 ひこうき雲】
時刻は12時46分を回りました。FM熊谷 やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語 第52回タウンタウン熊谷とさきたま新聞ということで小川さんにお話を伺っているところなんですが、お便りが届いておりますので紹介します。ラジオネームラグビーお兄さんからいただきました。「関根先生こんにちはそしてゲストの小川さん、今日はいろいろ熊谷の深い話取材を通じて感じた我が町熊谷の文化や歴史を小川節で語り尽くしてください。実はお会いしてもう6年も経ちます。今は別の活動でご一緒することが多いですが、私にとってはさきたま新聞の記者というイメージを先に持ちました。これからも熊谷に思いを寄せていただき取材活動を頑張ってください。関根先生も巻き込んで、笑」ということですね。ありがとうございました。もう1ついただいています。ラジオネーム「まっちゃん」からいただきました。「小川さんの熱量!フットワーク!変わらないですね。ちょこっとだけ何気に熊谷に肩入れしていただき、深堀り情報発信をこれからもお願いします。楽しみにしています」
小川 ありがとうございます。お互いにみんなで繋げていきたいです。
Navi そうですね。さて今直実公の話 桜の話とか出てきましたけど、どうですかね。
小川 関わって30年、熊谷生まれでもない。育ってもいないただ子育ての期間に関わって、たくさんの人に助けてもらって、たくさんの人にいろいろ本当に教えていただきました。励ましてもらいました。そんな中で自分は何がやりたいかもそこで気がつきました。自分ができることは何なのか、それも気がつきました。たまたまですけれども、障害のあるパートナーといたことで、熊谷の街、どこもそうですね。あの「バリアフリー」って言葉だけ1人歩きしますけども「障害者が暮らしやすい街はみんなが暮らしやすい」それがたまたまそばで車いすと一緒に歩いたりすることで、見えました。昔、くりちゃんが骨折してさくらめいとのところで車椅子で歩いたときにね、レンガがガツガツして大変っていう。そういうことも何かよく覚えてます。みんながみんなの希望を叶えることはできないけれども少なくともそれを意見を持ち合っていろんな人いろんな立場の人がこの「熊谷大好きって熊谷って素敵って」言ってそして、あの今ちょっと時代の変わり目っていうのは自分も歳だし、昨日も訃報が届いて意識してますけども、やっぱり繋げていきたい。それから年寄りの冷水みたいなこともありますけれども、
【エンドテーマ流れる】
そう石上寺さんですね。再建する時ある方から、「今度すごい斑鳩工舎の宮大工さんが来て直すよ」って情報いただいて、私上にも屋根の上にも上りました。ワークマンで地下足袋を買うべきだったんですけど買わないで。でもいろんな工芸的な意味でもあの勉強したし、建築の勉強もしたし楽しかった。だからいつもやりながら勉強して楽しくて人と繋がって、それがずっと生きてきて気がついたら、今ここにいるって、でももっともっと楽しい思いをしたいし、勉強したいし、またもう一度振り返りたいっていうそういう意味で、熊谷は映画の街でもあるんですね。映画っていうことはその一瞬を切り取る。あ、今回できた熊谷観光協会の方にもね。クマガヤパレード良かったです。やっぱりあれは「若い女の子が出てこないと駄目だし、その前のも見てます?先生、妻沼の亡くなっちゃってる看板屋さんの人が作って映画の関係の人だったんですけど、今はスキルもある、機械が進化している。でも、ラジオも大好きなんですけども、ラジオでさっきも宇野さんがどっか行って、レポートしてたみたいですけどね、私達もやりましたけど、変わるもの変わらないもの。
Navi これからもずっとまだまだ若者と一緒に繋がっていきたいですね。熊谷を中心に、
小川 先生のスクールデイズも好きですよ。
Navi ありがとうございます。だからそうやってこれからもまだまだ熊谷繋がっていきたいですよね。直実公、さくら、もう魅力がいっぱいまだまだありますけれどもこれからもどうぞよろしくお願いします。本当はもっといっぱい聞きたかったですけどあっという間に時間になってしまいました
小川 すいません。うまく回せませんでした。
Navi 小川さんがどこかいつも必ずいろんな歴史のシーン居てくださって、これからも、若い人と繋がりながら、熊谷が盛り上がっていくといいですよね、本当にぜひぜひこれからもよろしくおねがいします。忙しいですが、
小川 いやいやでも、さっきの回遊魚じゃないですけど
Navi 失礼いたしました。回遊魚でよろしくおねがいします。
小川 皆さんいろいろ今日何か変なこと言ってたら、間違ってたりしたらごめんなさい。また教えてください
Navi ということで本当はもっと聞きたいんですけど今日は、熊谷事典ライターの小川美穂子さんに来ていただきましたこれからもどうぞよろしくお願いします。また来てくださいね。
小川 はい。今日はありがとうございました。FMクマガヤで喋れてよかったです。ありがとうございました。
Navi また来てください。ありがとうございます。