FMクマガヤ 梅林堂提供「やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語」
2024年11月18日(月)12:00~12:54
ゲスト 東漸寺住職様 東漸寺副住職様 石井姉妹
Navi 時刻は12時を回りました。AZ熊谷6階FMクマガヤYZコンサルティングスタジオから生放送でお送りします。月曜のお昼は「やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語」です。さあ、今日は第7回「若松若太夫を訪ねて東漸寺時にたどり着く」こちらがタイトルです。さてどんな話になるんでしょう、本日ゲストでお呼びしているのは東漸寺 住職、前田宗岳さんです。
住職 こんにちは。よろしくお願いいたします。
Navi そして副住職の前田康晴さんです。
副住職 はい、よろしくお願いいたします。
Navi 今日はお二人、正装というか、素敵な法衣で来ていただきました。ありがとうございます。身が引き締まると共にすごく楽しくなりそうなんです。そして準レギュラーというかね、この番組はなくてはならないお二人にも来ていただいております。石井姉妹の二人、唐﨑瑞穂さん、戎居見世子さんです。
唐﨑 こんにちは石井姉妹の妹の唐﨑瑞穂です。
戎居 姉の戎居見世子です。よろしくお願いします。
唐﨑 私たちは本当の姉妹ではないんですが、二人とも旧姓がたまたま石井だったことと、今住んでいる石原地域の石原米のことを二人で調べていまして、石井姉妹、漢字で書くと石が二つにお米で石石米とも読めるので、それでラジオネームにさせていただいております。
Navi 今日のお話っていうのは色々と説明していかないとなかなかわからない、でも、聞くとやっぱり地域に興味が湧くというか、熊谷の文化とか歴史に興味が湧いていくような話なので、取り上げさせていただきました。ご住職と副住職に来ていただいて、今日は本当に何か幸せな時間ですね。
さて若松若太夫って一体だれ?そこからのスタートですね。今日はお姉さんにご活躍していただかないといけないからよろしくお願いいたします。
戎居 そもそも私が興味を持ったきっかけをお話しますと、私は結婚してから熊谷に住んでいるんですが、ちょうど東漸寺さんの門前通りにお家があって、その家の目の前の空き地に「愛馬小勇の墓」と刻まれた小さい石碑がありまして、真ん中が折れてたり、読めない文字もあったりして、ずっとこれは何なんだろう?愛馬っていうのはわかるし、あと刻んだ方のお名前で、若松何々太夫っていう文字は読めたんです。ただフルネームがわからなくてずっと気になってたんです。それで地主の方が草を刈りにいらしたときに、「すみません。これはどういうものなんでしょう」って伺いましたら「若松若太夫っていう、説経節の名人が立てたもので、この近くで生まれた人なんです」っていうことを教えていただきました。それ以来、本当なかなか手がかりがつかめなかったんですけども、それをきっかけに少しずつわかる範囲で若太夫のことを調べて今日まで来てるっていう感じなんです。
Navi 住職、若松若太夫はどんな人だったんでしょう。
住職 普通の方だと思うんですけどね(笑)始めはね。ただ、私も小さい頃に聞いたとき「オッペケペ節」とかって言って、なんか語って、いろいろやったらしいっていうのはちょっと聞いたことがあったんですよ。私は実際に会ったことないから詳しくはわからないんですが、何か当時の時世を風刺みたいなことをやったのかなというふうに思ってたんです。ただ、うちの方の松﨑さんだというのは聞いてましたから、私も昔は確かに石があって戒名を見たような気もするんです、過去帳で調べてみたら若太夫が出てきました。私もそんなにまだ詳しくないんです。
戎居 若太夫、松﨑大助さんっていう方なんですけども、彼が生きていた時代っていうのは明治7年に生まれて明治、大正、昭和と生きていらした方ですが、ちょうど「オッペケペ節」が流行っていたのが、明治20年代がピークだったようで、多分、若太夫も十七、八歳の青年期とか、その頃に全国的にかなりオッペケペが一世を風靡していたということらしくて、、、。
唐﨑 三味線を弾きながら、語るっていうスタイルが、オッペケペ節と説経節とちょっと似ているところはあったのかもしれないんですが、
戎居 なんかオッペケペは、もっと当時の政治ですとか、社会情勢とかを風刺している内容が結構入っていて
唐﨑 ラップみたいな?
戎居 そう、本当七五調でラップみたいな感じ。三味線はリズムを刻む的に使ってたのかなっていう感じで
Navi YouTubeで聞いたんだけど、「べべべん」みたいな感じですよね。「何とか~♪」みたいな。
戎居 そっちは説経節だと思うんですが。オッペケペ節は「オッペケペッポー ペッポッポー タタタタタタタ(7音) タタタタタ(5音)」みたいなリズムで。
住職 だから時勢を風刺しながらの話を街頭っていうんじゃないですけどね、あの当時は今みたいにテレビだとかラジオがあるわけじゃないですからね。うん。ですからそういうので街を流したりいろいろしてたんでしょうね。
Navi 今まで全く聞いたことがなくて。でも聞いてみると、すごい!みたいになってきたんですが
戎居 そうですね。説経節には、いろんな曲があるんです。特に有名なのが「山椒太夫」「小栗判官」とか「刈萱」で「刈萱」は主人公の名前から「石童丸」と呼ばれることもあるんですけども、その辺は有名なので五説経って言って五つぐらいありまして内容は物語になってるんですよね。
唐﨑 今聞くと、ちょっとどうなのっていうぐらいひどい目に遭った人の話なんです。
戎居 そう、やっぱり中世から近世にかけての乱世が時代背景になっている物語が多いので、基本的人権とか福祉とかそういう概念が全くない時代だから、まあひどい、かわいそう、というような。
Navi もうちょっと詳しく教えてください。
戎居 例えば、「山椒太夫」なんて言うと、そのうちのお父さんは偉い人なんですよね。
唐﨑 「安寿と厨子王」という絵本やアニメで有名かなと
戎居 そのお父さんは、ちゃんとしたお役人みたいな身分の方なんですけど、離れたところにいて、そこへおばあちゃん、お母さん、お姉ちゃん、弟の一行で訪ねていく、その旅の途中で、親切な人だなと思って、厄介になったら、実はそれが人買いで騙されて、もう一家離散。みんなそれぞれ違う船に乗せられて、離れ離れにされて、その先でも奴隷扱いでひどいんです。
唐﨑 説経節は、観客に感動、特に哀切を伝える「物語」こそが前面に押し出されたエンターテイメントと言われていて、まさに「泣き」の説経節で観客を泣かせてくるという
戎居 うん。もう本当にひどいよね。虐待の末に殺されてみたいな。だから、本当に聞いている人たちは、もう胸をかきむしられるような思いで聞いてたのではないかなと思います。
副住職 いや、知らなかったですね。なんか「アンクルトム」(※小説「アンクルトムの小屋」)とかと似てますよね。アメリカなんかも昔、奴隷制度がありまして、そのときに奴隷で働いてる人が、自分たちは自分で生きたいって言ってそこから逃げる。でもそれを地主さんは冗談じゃないって追っかけてきて、たどり着いたところで逃げたところで、酷い目にあったりする。奴隷を大切に思っている人もいればよく思ってない人もいて、先ほども言ったけど人権無視で雇う地主さんもいた。雇う側にもやっぱりいろいろな考えがあるんですね。そういう人たちの葛藤だとかそういうのを書いた本があって、なんか今、聞いてたらすごく似てるなと思いました。やっぱり時代ってすごいなって、今はそんなことあり得ないですけどね。
戎居 そうですね、ある意味、すごいアナーキーな世界というか。だからこそ何か神仏とかにすがる気持ちとか、なんかそういうのもすごく強くて鮮やかだったのかなって逆に思ったりしました。
Navi 格調高いですね。
副住職 そうですね、格調高いと言えばお釈迦様もね、元々生まれは王子様ですからね。
住職 ただね、そういう人じゃないと学問してないんですよね。昔っていうのは。そんなこと言っちゃ失礼だけど、一般の人が全部学問を今みたいに学校で全部教わったりしていないんです。その当時はもう自分の名前を書くのがやっとだなんてことが当たり前だった。今みたいに終戦後になって教育がしっかりしてきて、いろいろなものや文字がわかるようになったんです。だから昔は、語り伝えなければ、いろいろできなかった。寺なんかでもそうなんですよ。いろいろお説教じゃないですけど、人の言葉でいろいろ表してやらないと、周りの人はよくわからなかったわけですよ。
唐﨑 やっぱり物事を上手に伝えていくっていうことで、説経節っていう方法も…
住職 その一つだったんでしょうね。
戎居 まさに、その説経節の起源があの説経の経、お経の経です。やっぱり仏教とか神様のことを庶民にわかりやすく伝えるために、語って聞かせてっていうところから始まってるようですよね。
副住職 お経の「説経」もありますが、教える方の「説教」って言葉もありますよね。こちらの説教ってよく考えたら説明の説に教は教える、だから説明を教える。そういう教訓をやっぱり語り伝えるというのが説教なんだなと、私は今ここで初めて気づきましたね。
戎居 初代が活躍していた当時は一般に、お経の「説経」と教える「説教」を明確に使い分けていなかったという説もあるようです。
Navi いや、よく「ああ説教が始まった」と先生が何かこう堅苦しい話をすると言いますが、今の子にとって説教は、
副住職 ネガティブですよね。
住職 そういうことをちょっとイメージしちゃうでしょうけど、そうじゃなくて「いろいろなものを説いた」ということでしょうね。
Navi だから当時としては説経節を聴くというのは貴重な機会だったのかもしれませんね。
唐﨑 「わかる」ことは楽しいことですからね。私たち石井姉妹も今回、若松若太夫のことで色々調べていって東漸寺へたどり着いたわけですが、知らなかったことが「わかる」のは、とても楽しいので、きっと説経節を聴いた昔の人も楽しかったと思います。
住職 そうでしょ。今だって、こないだ選挙が終わったけれど、あれだって一生懸命演説したりしてますよね。結局は伝えたいことを文書でも出すけれども街頭でも説いている。説経節と同じようなことをみんなやってるわけですよ。昔も街頭でやってたんだね、三味線の説経を。オッペケペ節しかり、そういうところから流れが来ているわけですよね。
Navi だとしたら余計に、誰かが伝えていかない限り、消えちゃったら困りますよね。今日、私は住職から心地よい感じで、まさに「説教を聞いている」んだと思ってます(笑)本当に貴重な話を聞いている。
住職 先生なんかがね、毎日やってることでしょ(笑)
Navi いやいや、なかなか住職のようには…(笑)ではここでちょっと1曲入れたいなと思います。今日は住職からのリクエストで美空ひばりの「川の流れのように」です。どうぞ。
【曲 美空ひばり 川の流れのように】
Navi 時刻は12時20分を回りました。AZ熊谷6階 FMクマガヤYZコンサルティングスタジオから生放送でお送りしております。月曜のお昼は「やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語」今日は、第7回「若松若太夫を訪ねて東漸寺にたどり着く」ということで東漸寺の住職、そして副住職、そして石井姉妹にゲストで来ていただいてます。よろしくお願いします。
一同 よろしくお願いします。
Navi 曲の間も話が盛り上がっちゃって(笑)すごいパワーです。若松若太夫のことや説経節の話で難しくなりそうなんですが、まずどうして東漸寺にたどり着いたんでしょう。
唐﨑 そうですね、第2回のゲストで呼んでいただいたのが10月の半ばだったんですね
戎居 確か14日だったかな
唐﨑 そう。それでラジオが終わった後に、いや、せっかく若松若太夫さんのお墓が東漸寺にあるって書いてあるんだから、ちょっとこの足で二人揃って自転車をこぎながら、東漸寺さんに行ってみようと。うちは先祖のお墓があるので、もう行き慣れていて住職の顔も副住職の顔もわかるし、ちょっと行ってみようよって。二人で連れ立って「お線香とかも持った方がいいよね」なんてお姉さんの家で調達させてもらって、若松若太夫の愛馬の碑の前を通り抜けながら東漸寺に伺ったっていうのがそもそものきっかけになります。
Navi どうでしたか?お二人がいきなり来て
住職 まずね東漸寺っていう寺があるのは、いろいろな人たちの思いで出来上がってるもんですから、若太夫さん以外にも歴史は確かにたくさんあるんです。それでその中に昔、東漸寺を立ち上げた祖先がいてね、武田信玄の配下の武田軍団なんですが、その中の流れを汲んで東漸寺っていうのはあるわけです。そういう中で一生懸命力を出してくれた檀家さんの一つ松﨑さんが、若太夫さんの本家の関係があるわけなんですよ。そういう関係で若松若太夫さんが亡くなったときに、戒名をつけてうちの寺に碑があったわけです。だけど昔は土葬とかの時代ですから、ここまでがウチで、ここから隣、みたいなはっきりとした境界がなかったんですよね。そういう中に一つあったわけです、若太夫さんの碑が。
唐﨑 私、お墓によく行くんですが東漸寺のお二人に案内してもらうまで、そういうお墓がここにあるっていうのも本当にわからなくてですね
Navi 副住職!東漸寺にいくと何か案内してくれるんですか?
唐﨑 私たちはすごく運が良くてですね(笑)急にお訪ねしたのに、お二人ともいらっしゃったんです。
戎居 そうでしたね。そして副住職に過去帳も見ていただいたんですよね。
副住職 最初、石井姉妹さんに「若松若太夫さんが多分こちらに眠ってると思うんですが」と言われたときに、「はい、すいません、若松若太夫さんとはどなたでしょうか」と。私もまだまだ勉強不足のところがあって、それで逆に今日は呼んでいただいて、私、聞いて勉強しようかなというところでした。あとは住職をあんまり暴走させないようにと(笑)。呼んでいただいてあれですが、二人が来たあと住職にいろいろ聞いて、私も本当にそこから若太夫さんとか、オッペケペも説経節も知っていった次第でして。今またいろいろ聞かせていただいて、やっぱその時代時代を本当、必死に生きた方だったんだろうなって思って。逆に興味が湧いてきました。
唐﨑 ありがとうございます。嬉しいです。
Navi なんかお寺っていうところはね、お葬式とかそういうときにお世話になるイメージですが、実はいろんな方が眠ってるところだから、いろんな情報が集まる場所なんですね。
住職 そうですね。それもあるし、昔、東漸寺の周りは農家で、みんな畑やったりいろいろしてるわけですけど、子どもさんが畑の中で遊んでるわけにいかないので、「お寺行って遊んでこい」っておうちを追い出されるわけですよ。そうすると、みんないろんなものを持ち合ったりなんだりしてお寺に来たわけです。いまは幼稚園っていって、うちもやってますけど、それの前身なんですよ。
副住職 近所の集まりがお寺なんですよね。
住職 私が小さい頃は、夏休みなんかよく本堂に上がってみんな勉強をしてたんですよ。
戎居 まさに寺子屋ですね。
住職 だからそういうものが全部含まれてるのがお寺っていうところなんですよね。
唐﨑 今回私たちも急に行ったのに、本当に温かく迎え入れてもらって。私、コロナのときに学校にも行けなくなって。子ども二人抱えて私はどこに行ったらいいんだろうって思ったときに、お墓参りに行こうと思って、、、。
戎居 素晴らしい。
唐﨑 お墓参りだったら、子どもがいても大丈夫ですよね。公園とかもそのときは怪しかったので、墓参りで手を合わせて、そしてあの境内のムクロジを拾ったりなんかして、そんな感じでいつ行っても、誰が行っても、迎え入れてもらえる東漸寺には、そんな土壌があるなっていうのは本当に感じてましたね。
副住職 コロナのときも実際、法要とかもできない。やっぱりどうしても本堂の中でやるものですから、密になってしまって、なかなかやれない。そんな状況の中で、私もお寺には、もちろんいましたけど、さっき唐﨑さんがお話されたように本当お墓参りにくる人が逆に増えたんです。
Navi そうだったんですね!
副住職 コロナのとき行くところがないというか、だったらご先祖様にこの機会に会いに行こうと。他の人と会うことはないし、お墓に手を合わせて「ご先祖様に会う」っていう。そこを考えていただける檀家さんがたくさんいらっしゃったっていうのは本当にありがたいなと思いました。今まで住職またはその先代がね、やっぱり築き上げてきた東漸寺っていうものが「間違ってなかったな」と実感しました。本当に檀家さんの近くにいられるお寺っていうのが理想です。
話が逸れちゃうようですが、いま住職から話があったように、やっぱり今お寺さんとかっていうと、どうしても敷居が高いとかって言う方いらっしゃるじゃないですか。でも実際、昔はね、先ほどちょっと出ましたけど寺子屋じゃないですけど、お寺に来ていろいろと勉強したり、遊んだり、お寺ってその地域の中心だったっていうのもあって。本来だったら敷居が高いとこじゃなくて来やすいお寺さんでありたいな、と。特にご縁があって檀家さんっていうのがいらっしゃるわけで、その檀家さんが、やはり来やすいお寺、ちょっとお茶飲みに行こう、ちょっと話しに行こうって。だからそういう意味で本当に、今回こうやって唐﨑さんが来ていただいて、他にもね檀家さんいらっしゃいますけど、お話しに来てくれて、お答えできなかったら申し訳なかったですけど、
戎居 いえいえ、とんでもない
副住職 そのとき、こうやって来ていただけたのが、すごく嬉しいですし…。「ちょっとお寺さん行って、もしかしたら知ってるかもしれないから聞いてみよう」じゃないですけどね。そうやって来ていただけるようなお寺をこれからも続けていきたいなと思いましたね。
唐崎 ありがとうございます。
Navi お姉さん、ところでね、今回の収穫は何ですか?それを聞きたいですよね。
戎居 そうなんです。まずは若太夫のお墓を探してみようかって言ってお訪ねしたんですけれども、若太夫のお墓自体はそのときは、しかと見つからなくて。でもやっぱり一族の墓とかお参りさせていただくことができてよかったです。ご住職にも親身になって一緒に探していただいて、とてもありがたかったんです。そのときに私たち若太夫のこともそうですが石原米とか、この石原の暮らしてる足元の歴史みたいなことをとても興味があって少しずつ二人で、実際に歩きながら探索してるところだったので、その石原米のこととか、鍵屋さんとか、お蔵場とか、お米繋がりで石原米は忍のお殿様への献上米だったということで、そのお蔵場が、あの辺にあったんだよとかそういうお話もそのときにしていただきまして、
唐﨑 お墓を磨きながら住職の話を聞くっていう、ありがたい時間で。
戎居 すごい濃い時間でした。歴史のレクチャーをずっとしてただき、、、。
Navi 石原米とかお蔵場とか、またそういう難しいことを、、、
住職 お蔵場、石原米は忍城の関係です。東漸寺の歴史は、それよりもうちょっと古くて、武田の勢力が北条の、、、
Navi 武田?武田信玄ですか?
住職 そうです。で、その武将の一人が確か四十人衆か何かぐらいの中には入ってる人なんですけど、それが主になってうちの方に領地をもらってとった。というのが記録にあるわけですよ。今回の若太夫さんのことは、昔のことでしてね、それを調べるっていうのは見てるわけじゃないから、なかなかできなかった。ただ若太夫さんのことを石井姉妹のお二人から聞いたもんで。若太夫さんってどういう人ですか、と。わかる範囲で調べてみたら、あの人は松﨑大助っていう名前で、それが若太夫っていうのが芸名みたいなもんでしょうからね。それでうちで亡くなってますから、うちで戒名つけてる。若松若太夫ですから、若松院、武蔵の国だから武蔵で若松院武蔵大掾居士なんだろうと。
戎居 そうですね。説経節でとても芸が素晴らしかったので、若太夫は久邇宮家から名誉のある「武蔵大掾」という称号を受けてるんですね。だから、それを戒名に入れたようですね。
住職 あ、そうですか。大掾っていうのは、ちょっとわかんないんですけど、武蔵はついてますね。大掾っていうのはね、これ今実際に辞書で引いても当用漢字にもないんですよ。てへんに象みたいな字で、
戎居 武蔵大掾の「掾」の字のことですね。
住職 「掾」という漢字は「下役人」とかそういう意味も持ってるんですね。この字は国字で明治のときの辞典で調べると出てくるんです。難しい字ですよね。
戎居 今はあまり見ない字ですね
住職 使わないから出てこないですね
唐﨑 私も読めなかったです。
Navi あの想像ね、字の想像もすごいんですけど、だんだん議論が深まってきちゃいましたね。あと、やっぱり先ほど石原米と言ってたんですけど、住職、いま石原米がなくなっちゃって心配してるんです。
住職 なくなるっていうのはちょっと私は農家じゃないんで、よくわからないんですけどね。石原米っていうのは、あれ?そういえば「いしはら」と「いしわら」と読むんですよね。ひらがなで言うとちょっと違うんですね。「いしはら」が正しいんではないかというふうに私は聞いてるんです。二つの説があるんですね。歴史からすると、、、
副住職 「いしはら」か「いしわら」か笑)このラジオで第3回の時に校長先生=Navi)がやられてたから、まずお話、ちょっと聞きたいですよね!
Navi この間だってね、結局どっちでもいいんだよ的になっちゃったんですよ
住職 でも実際には「いしはら」が正しいんじゃないかなと思うんです。石の原っぱって書くわけですから。この地域は荒川の関係がどうしても出てくるんです。うちにも船場石っていうのがあるんですけど、昔のものなので石の彫りがなかなか判読できないんですが。船場石っていうことは船着き場ですから、船着き場がなんでこんなとこにあるんだろうと、今うちからだと荒川まで2キロ近くありそうですよね
戎居 いまは土手が遠くなってるんですね
Navi そうか東漸寺の近くまで川が来てたんですかね、荒川は昔、流れがかなり蛇行していたから、、、
唐﨑 熊谷の郷土文化会さんが出した「石原特集号」っていう文化会誌があるんですが、確か昭和61年に発行されている…そこに、その石は赤城神社の北の鳥居にあったと。私も先日その記述に辿り着いて知ったのですが、その石をいま交通事情で置く場所がなくなったので東漸寺さんの門前に移動した、ということが書いてありまして
住職 ああ、そうだったんですか。
Navi でも赤城神社のあたりまでは荒川が来ていたと、、、
唐﨑 はい。赤城神社の北側の鳥居から左に行くと「ふなば道」って書いてあって、それが今は押切橋がありますが当時は「押切の渡し」に行く道が左にあるよっていうのが、いま東漸寺さんの門前に置かれている「船場石」なんですね。
住職 だから左に行くと広瀬の川原を経て押切の渡しへ行く「道しるべ」だったんでしょうね、秩父街道から分かれて。そういうことが書いてあるんですね。荒川っていうのは荒れる川って書くだけあって先ほども話があったように流れが年中変わってたらしいんですよ。昔ですから素晴らしい土手なんてのはないですからね。今の土手じゃなく旧の土手、あれも今の秩父線の近くまで来てたんですよ。それは今でも、ところどころ残ってますけどね。それが決壊をして、その決壊も過去に何回も土手を破ってるわけですよ。大きな決壊があったとき、これは江戸時代にあったと聞いてますが、八代将軍吉宗の頃ですね。
Navi わあ、そんな時代に、、、
住職 そう。その次が…九代家重か。家重の代の最初の頃に荒川がすごい決壊をして、だいぶ亡くなったらしいんですね。そのとき荒川から流れ着いた流木を使って供養のために建てたのが、今うちにある山門なんですよ。
戎居 えー、そうだったんですか!
唐﨑 そんな歴史があったとは…
住職 修復はしてますけどね、元々の木だって残ってるわけですよ
Navi すごい!流木ですか?
住職 はい、それは熊谷市の文献に載ってますよ。資料を持って行って出しましたから載ってると思うんですけどね、そういう流木で供養をしたと、、、
戎居 今度お寺に行ったら、しみじみと見ちゃいますね。
住職 門がね、うちは二つあったんです。今一つになっちゃってますけど、私は二つの門は知ってますけど今の副住職なんかはもう二つの門は知りませんからね。
副住職 初めて聞きました、一つしか知りませんでした。
唐﨑 荒川の恵みがね、蛇行していたおかげで流木もくれば地質も良くなってお米も…
住職 そうそうだから供養のためにね、お寺ですからそういうのをやってくれということだったんでしょうね。近くまで荒川の流れが来ていたから、やっぱり東漸寺の方の部落っていうんですかね、村でもだいぶ亡くなった人もいて大変だったんでしょうね。
Navi いや、その山門に流木が使ってあるっていうのは見てみたいです。
住職 記録はちゃんと残ってますから熊谷市の方で調べればわかると思うんです。確か棟札に記録があって、重要文化財ということで、これはちゃんと載ってますからね。ちょっと見て調べてみるといろいろ書いてあると思いますね。歴史っていうのはそういうものでね
副住職 石原米は、大丈夫ですか(笑)
住職 やっぱり石原米ですか。
一同 笑
住職 石原米のお蔵場っていうのはね、今の秩父街道がありますね。そこから寺までってのは結構距離があるんですよ。あれはね、うちの参道だったんですよ。それで秩父街道のところにちゃんと、これは文献に残ってるらしいんですけど、調べた人が言うには、昔はちゃんとあそこに木戸の門が建っていたんだそうです。
戎居 今のあの中村電池さんのとこですよね。
住職 そうそう石井さんのところ。
唐﨑 「石井」が出てきましたね(笑)
住職 石井さんってうちが秩父街道から入ってくると左方、寺の方から行くと右方なんですけど、あそこが、鍵屋さんっつって、鍵を持ってる、要するに門を開けたり閉めたりする鍵屋さんを「鍵屋んち」と昔は言ったんですね。それの秩父街道の向こうに寺の方から言って道のすぐ向こうに行って道のすぐむこうに欅の大きなのが立ってると思うんですよね。今あるかどうかちょっとわかりませんけれど、そこのところの左方がお蔵場って、あのうちの方の、要するに城家が東漸寺の開基様なんですけど、
唐﨑 城和泉守さま。
住職 そう。城は「きずき」って本当は読むんだそうです。城を築く、ということだから、
Navi また城家になっちゃって、申し訳ないんですが、この辺で、あの曲にね、、、
住職 長くなっちゃうんで申し訳ないんだけど(笑)そこにお蔵場っていうのがあって、そこは相当後の時代まであった。忍城のお蔵場でもあったから。要するに一番最初は城家のお蔵場ですけど、それをそのまんま直して作ったのが忍城のお蔵場なんです。行田の忍城は江戸時代からのことで、それより前の時代は忍藩はないですからね。
Navi はい、では曲にいきます!大事Manブラザーズで「それが大事」
【曲 それが大事 大事マンブラザーズ】
副住職 石原米は(笑)大丈夫ですか、、、
Navi 時刻は12時45分を回りました。第7回「若松若太夫を訪ねて東漸寺にたどり着く」。曲の間も、話題が沸騰していまして(笑)本当に住職のお話はですね、もう面白くて
唐﨑 もうずっと聞いてられますね
戎居 話し足りないですね
Navi ただちょっと深い話が多くてね。例えば城和泉守っていう方が、
副住職 城さんは開基さんです。最初に「ここにお寺を作ろう」と言った方ですね
Navi 石原の歴史を紐解くと、城氏「城」って書くんですが、この辺をおさめていた方も、ここにたどり着いたんだっていうのをね
唐﨑 しかもその城さんに付いてきた方々の名字っていうのも地元に伝わっていて、松﨑、青木、関口、森、、、石原小学校の生徒の苗字にも、いまだに多いですよね。
住職 森はね松﨑から出てるんです。熊谷にもいろいろ名字がありますけど、その中で七千石っていうと結構な広さなんですよね。
Navi 城和泉守は七千石、これも大事なことですね。
住職 これも長篠の戦いで、徳川方が勝ち武田が滅んで、その次に今度は秀吉の時代になる。秀吉のときに徳川は武田を抱えたかったんですよ。というのは武田は強かったから、徳川家康がちゃんと負けたっていうのは武田信玄に敗れただけでしょ、だから武田の家来をみんな抱えたがったんです。そのときに一緒に抱えたのが城家なんです。
Navi なるほど!これすごい歴史の話に
唐﨑 武田から徳川に仕えてるんですね
住職 城和泉守は大阪夏の陣、冬の陣と徳川の「軍監」(※軍事の監督)までやってるんですが、結局ちょっとね、勘気に触れたらしい。それで改易(※所領・所職・役職を取り上げること)になっちゃうんです。本来ですと殿様ですから、院殿大居士っていう最も格式が高いとされる戒名をもってるんですけど、家康に赦されて蟄居していた近江から江戸に向かう途中、信濃で亡くなってしまうんですね。向こうの方のお寺には院殿大居士の戒名があるけど、こちらは改易になってるから東漸寺は「南圭宗忠」という普通の居士号なんですね。
副住職 殿様の戒名じゃないってことですね。
住職 うちにも実際には二つあるんですよ。過去帳には二つ載ってるんですよ。
戎居 そうなんですね!すごい話を、、、
Navi いや本当に深くなりました…!
住職 歴史ですから、長いことですからね。またその城家はどこからどうなってる?となるとなかなか難しいもんで今はその城家は潰れて、城家を継いでいるのは玉虫家で、いま玉虫家っていうのは残ってる。元々は城家もお公家さんの関係ですから、江戸城の向こうにお公家さんとして、ちゃんとお墓もあるんです。
副住職 住職!石原米ぐらい、はっきりさせてから…!!大丈夫ですか?
一同 笑
住職 石原米っていうのは石原でとれるから石原米なんですが、皆さんも知ってる通り、荒川は年中氾濫する。だから土壌が石の原っぱなんですよね。熊谷市の半分から忍の方、行田にかけて向こうは利根川ですから、利根川の土壌は粘土層なんです。だから、こちらは石の原っぱで水はけがいいところ、その方がお米が育ちやすいし美味しいんですよね。それで忍城の献上米として石原米がたくさん穫れて、昔はすごかったんですよね。
副住職 だから石原っていうのも名前も石の原っぱだから「いしはら」じゃないかというのが住職の見解です。
Navi 副住職まとめていただきまして、ありがとうございました。
住職 本当にそういういろいろね、あるわけですよね。
副住職 確かにそうですよね。石原って看板なんか見ると「いしわら」って書いてあったりしますよね。いろいろなんですね。
Navi またこの「いしわら」と「いしはら」が再燃しますと、お時間かかりますので
唐﨑 1時間はかかります。
住職 1時間も2時間もかかりますから(笑)
Navi 本当に今日はですね、貴重なお話で。いつもこの時間は尻切れとんぼというか、オープンエンドというんですけどね(笑)。まだまだお話を伺いたいところですが、石井姉妹にまた、よくまとめていただけたらと思います。
石井姉妹 あら?!
Navi 今日は「若松若太夫を訪ねて東漸寺にたどり着く」ということで貴重な機会をいただきまして、東漸寺住職 前田宗岳さん、そして副住職 前田康晴さん、そして石井姉妹に来ていただきました。ありがとうございました。
一同 はい、ありがとうございました。
住職 たまにこうして歴史を引っぺがしていただけると、こちらも助かりますよ(笑)
Navi またぜひお話を伺いたいと思ってます。というわけでこの時間、もう名残惜しいんですけど、ありがとうございました
一同 ありがとうございます。お世話になりました。
【エンドテーマ 有梨 僕らがつなぐ物語】
AI nottaによる要約
この対談では主に、熊谷市の歴史と文化、特に若松若太夫と説経節について議論されました。対談には東漸寺住職の前田宗岳さん、副住職の前田康晴さん、そして石井姉妹の唐﨑瑞穂さんと戎居見世子さんが参加しました。対談は若松若太夫の生涯と業績、説経節の特徴と内容、そして熊谷市の石原地域の歴史について展開しました。前田宗岳住職は、若松若太夫が東漸寺の檀家であったこと、そして説経節が庶民に仏教の教えを伝える手段であったことを説明しました。石井姉妹は、若松若太夫の墓碑を探索したきっかけや、石原地域の歴史研究について語りました。また、前田康晴副住職は、東漸寺の歴史や石原地域の地名の由来について詳しく解説しました。対談では、熊谷市の歴史的な洪水や土地利用の変遷、地域の名家の系譜なども話題に上がり、地域の豊かな歴史と文化が浮き彫りになりました。最後に、こうした地域の歴史や文化を継承し、地域住民に開かれた寺院としての役割について議論が行われました。
Q&A
Q: 若松若太夫とは誰ですか?
A: 若松若太夫は、明治7年に生まれ、明治・大正・昭和を生きた説経節の名人です。本名は松﨑大助で、武蔵大掾という称号を受けていました。東漸寺の檀家であり、寺の過去帳に戒名の記載があります。
Q: 説経節とは何ですか?
A: 説経節の始まりは仏教の教えを庶民にわかりやすく伝えるための説法だったと言われています。そこから語り物として発展し、「山椒太夫」や「小栗判官」などの有名な物語があります。多くは乱世を背景とした悲劇的な内容で、聴衆の感情を揺さぶるものでした。
Q: 石原米(いしはらまい)という米の由来は何ですか?
A: 石原は、荒川の氾濫によってできた石の多い原っぱが由来とされています。この地域は水はけが良く、美味しい米が取れたことから、石原米は献上米の産地として知られていました。「いしはら」と「いしわら」の読み方の違いについても議論がありますが、住職からは「いしはら」が正しいのではないかという見解が示されました。
Q: 東漸寺の歴史について何か特筆すべきことはありますか?
A: 東漸寺は、城和泉守という人物によって開基されました。寺の山門は、江戸時代の荒川の大規模な決壊の際に流れてきた流木も使われたという歴史があります。また、寺には武田信玄の家臣の子孫が関わっているなど、地域の歴史と深く結びついています。
行動項目
石井姉妹は、若松若太夫や石原地域の歴史についてさらに調査を続けることを示唆しました。
前田宗岳住職は、寺院の歴史資料や過去帳をさらに詳しく調べる意向を示しました。
前田康晴副住職は、地域の歴史や文化を地域住民に伝える活動を継続する意思を表明しました。
石井姉妹は、石原米の由来や歴史についてさらに研究を進めることを提案しました。
前田宗岳住職は、寺院を地域の人々が気軽に訪れることができる開かれた場所にしていく方針を示しました。
前田康晴副住職は、寺院の歴史的資料や文化財の保存と活用について検討することを提案しました。