2024年11月4日(月)12:00~12:54

梅林堂プレゼンツ やわらか熊谷~僕らがつなぐ物語~ 聞き逃しweb

時刻は12時を回りました AZ熊谷6階FMクマガヤYZコンサルティングスタジオから生放送でお送りします。月曜のお昼はやわらか熊谷僕らがつなぐ物語です。担当のナビゲーターは関根達郎です。今日はですね、いよいよやわらか熊谷も第5回ということで、今日のタイトルは「覚えていますか母校の校歌」ということです。熊谷市内の小・中学校の校歌が話題でどんどん出てきます。今日のゲストは熊谷市郷土文化会長の小池博先生です。

よろしくお願いします。

小池 小池博と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

Navi そしてもう1人はですね、同じく郷土文化会副会長、音楽の先生ですけれども新井俊一先生、よろしくお願いします。

新井 新井俊一です。

Navi このお2人私の大先輩で、すごく今までもお世話になっている方なので「先生」と呼ばせていただきます。まず小池先生ですけれども、私との関わりを言うと私が中学校の教員になったばっかりの時、先生が教育事務所にいらして、学校訪問で理科の授業を指導してくださったところが最初の出会いでした。以後、理科の教員のサークル究理会でお世話になったり、熊谷の社会教育課がやっているウィークエンドサイエンスとか、そういったところで自然科学のガイドもされたりしていました。小池先生の出身小学校と中学校から教えていただけるとありがたいです。

小池 私は、久保島というところに住んでおりますので、生まれも育ちも熊谷市内です。したがって、小学校は玉井小学校、玉井中学校卒業しました。その後、高校、大学を卒業した後、別府中学校で11年間、大原中学校で6年間、さらに荒川中学校で9年間以後、各地を回って管理職で教頭時代を経過して、校長で成田小学校3年間、最後は熊谷東小学校2年間という教員歴でした。

Navi ありがとうございます。小池先生この間の成田トリエンナーレでご奥原晴湖のご講演をされてましたね。

小池 私、成田小学校に3年間お世話になったことがありまして、その以前花園中学校に勤務してたのですが、ちょっと体を壊して、もうやめなきゃなんないかなと思っていたところ、成田小学校への転任がありました。そして初めての小学校で迎えてくれたのが成田小学校の校歌でした。地域のことを歌い込んだ素晴らしい校歌だなと思いました。しかし、その校歌があまりにも難しいので、先生方に聞いたところ、誰もわかりませんでした。地域の方に聞いても詳しいことはわからないそれでやむなく自分で調べることにしました。というのも子供たちや先生方から「わからないことは校長先生が調べて教えてください」って言われました。それがきっかけでしたね。それで地域の歴史を探ることになって、その延長上でこの間のような行事が開催されて校歌に出てきた人物「奥原晴湖さん」のことに詳しくなりました。

Navi 私も成田小に2年間いたことがあり、校歌の「くしきえだぐみ せいこをほこる♪」って覚えています。

小池 「晴湖を誇る」って言ってましたよね。くしき画工(えだぐみ)これが小学生には非常に難しい言葉ですよね。1人の子供たちは職員はですね、綺麗な山の湖かと思っていたようですが、どうもそうでもなさそうだということですね。地域の方にお尋ねしたのは龍淵寺に晴湖さんのお墓がありますよ。そんなところから龍淵寺さんをお訪ねしてですね、ご住職からお聞きしたのがきっかけですね。この後に明治時代に女流画家で奥原晴湖というとても有名な人気の画家がいたということがわかりました。晴れた湖って書いて晴湖って言うんですよね。成田小とか成田星宮小の人はあの名前をみんな知ってるんですけど、それが本当に湖だって思ってる子供はいっぱいいますよ

Navi そうだと思います。

Navi 続きまして、新井先生ですけれども音楽の先生で、実は私、熊谷西小学校の子供だったときにいきなり初めてリコーダーを教えてもらったのが、新井俊一先生でした。眼鏡をかけていて若くて、もうパリパリとしていた先生で印象に残って一生忘れません。リコーダーの教え方がすてきでした。初めてリコーダーを教えるときにこうやって演奏するんだよ、言ってやった演奏があまりに上手で、それは一生忘れないですね。最後は三尻小学校で校長先生ということで終わりにして、現在は県の退職校長会の会長までされているという立派な先生で、ずっとお世話になってました新井先生よろしくお願いします。

新井 今は小池先輩の様な活動ではなくて、私は退職校長会の仕事をやってるんですけども、退職校長会の仕事を以上にずっと続けてる音楽の活動等もありまして、二、三日前は築地市場の朝日新聞のホールで男性合唱で団員として歌ってきました。

Navi 現役で歌うんですか?

新井 そうなんです。昭和15年生まれです。この間84歳になったんです。

Navi とてもそういうふうには思えないぐらいのアクティブなんですけど、

新井 あとは私は新聞に投稿することとか、短歌を投稿するとか、そういうのもずっと続けまして、それからつい最近では短歌集なども作って「よく作りますね。」っていわれるので「作ったのは印刷屋さん」ですって言って笑いながらやっております。私は、終戦前は旧満州に住んでまして、父の実家が吉岡にありましたので終戦後、引き揚げてきて、吉岡小に通いました。私は、昭和22年に三尻小に行きまして、中学校は三尻中学校、当時はいわゆる基地の街で過ごしたっていう記憶があります。実は私の住んでいる新堀の学区である玉井小学校に教員として赴任しました。歩いて5分ぐらいで着いちゃうんですよ。小学校に勤めていたんですが音楽が好きだっていうことで、もういきなり音楽の仕事が入ってきて校歌の伴奏を新任時代からやっておりました。後ほどお話しますけれども、その後熊谷西小に行きまして、ここでも音楽の仕事だったんですが、パーソナリティーの関根さんのクラスに行って授業をやった記憶があります。校歌の思い出なんですけども、熊谷西小学校で初めて指揮をすることになったんですが、始業式でまだ紹介されてない子供たちの前でいきなり指揮をしてマイクに指揮棒がぶつかって落とした記憶があります。その後、県内いろんな学校へ行ったんですが、どこの学校でも音楽の仕事が多くて、最後は母校の三尻小学校で校長をすることができて幸せだったなというふうに思ってます。

Navi 大先輩なんですけども、今でもあちこちでご活躍ということです。頭が下がりますが、今日はお2人と一緒に番組できるってことを本当幸せだなと思っています。本題です。今日お2人が所属している熊谷市郷土文化会っていう会があるんです。私4月から入会させていただいたのですが、大先輩がものすごいたくさんいらっしゃったんです。本当にたくさんの方々が長く、いろんなことをやってきた会なのです。小池先生、郷土文化会ってどんな会でどんなことを研究されてるのかちょっと教えていただけたらと思います。

小池 はい、この場で熊谷市郷土文化会のご紹介を少しさせていただきます。この郷土文化会っていうのは歴史がとても長くて創立は昭和10年、私は昭和14年生まれですから、誕生したころはまだ生まれていませんでした。戦前の話ですね、当時、熊谷市が新しい市制をスタートした頃、初代の新井市長が「熊谷市の将来と展望」をとうとうと市民代表たちを集めてお話されたそうです。このような市にして郷土文化も新興し、発展するようにという、そういう願いを込めた大演説だったそうです。集まった文化人が市長の意向を聞いて、「さあ協力しよう」と話し合ってる中で、熊谷の将来について展望するのには、過去のことについても振り返ってみるのが大事だろうって話がでて、そこで熊谷の歴史を調べる会がスタートしたそうです。お役所の中に今のような部署がたくさんあったわけじゃなく、文化人たちが、いろいろと支え合ったり協力し合ったりして熊谷の文化振興に携わってたようです。その人たちが郷土史を作った。今年がなんと90周年に当たります。代々会長が変わって、市長さんが会長だったのですが、戦後は官製っぽい郷土文化会が昭和21年から、民間団体として新たにスタートしました。

前は熊谷郷土会、戦後熊谷市郷土文化会というふうに改名して現在を迎えて90周年で会誌の方は80号、その記念号として今回、熊谷市の校歌を取り上げたと、そういう次第です。

Navi ありがとうございます。本当に歴史のある郷土文化会で、校歌を集めるということで、市内の各校長先生に宿題として夏休みの宿題として校歌のなりたちと校章の由来とかを調べて提出していただきました、それを今、会長さんに納めてですね、そして研究として副会長さんが分析している最中で、なかなか面白いことがわかったというのが今日の番組の内容です。郷土文化会の会長、副会長さんのお2人なんとですね、このコンビは2人で作詞作曲の歌を作っているんですね。新井先生、この「曼珠沙華の里」って言う歌なんですけど、これはどんな歌ですか?

新井 小池先生と私が社会教育課で同じ部署で机を並べて仕事をしているときに「久保島でこういうことがあるんだけれども新井、歌を作ってくれないか」っていう相談に見えたんですよ。私も詞を書くんですけど、「小池先生が歌詞を書けば、曲を作るから」と言ったら、即、作って持ってきてくれて3番まであるこれから聞いていただきますが、ちょっと粋な歌詞があるんです。それで、立ちどころに作ってしまいましたら、その後あれよあれよと広がって、最終的にはCDまでたどり着いたのです。

Navi このCDが本格的に装丁してあってですね。歌は長谷川淳さんというそうです。特におすすめは2番の歌詞です。「あの娘の衣で舞う姿」粋ですね。小池先生。

小池 これは私が、地域再生を目指して自治会活動に関わっていろいろな伝統文化が廃れていって寂しいなと私は自分の故郷を大好きでしたから、もう1回、昔のようによみがえらせたいなって思いの活動を展開してたんですけど、そのときの何か方策はないかなと思ったりしつつ、地域民がみんな集まって歌えるような歌、あるいは故郷離れても、空気を思い出してくれるような、そういうものを歌にしたらどうかなということで新井先生に協力をお願いしたいんですけどね。熊谷は各地に曼珠沙華が近年大変綺麗な花を咲かせますよね。特に西部地区にはそういう地域がたくさんありましてね。これを一つ新たなテーマにしてですねはい作ったらどうかなということで2人で協力しあったようです。

ぜひねこれを聞いていただきましょうかね

その前にちょっとねこの話が出たときに曼珠沙華って何か寂しいイメージもあるんですけど、何か子供たちはね、必ずしも寂しいとは思ってないんです。実は明るい曲と暗い曲の2曲作ったんです。私はてっきりこのCDもその最初に作った子供たちが明るい感じの曲を選んでくるのかなと思ったら、もう一つの大人のしみじみとした表情があふれる曲を出したCDに使っていただいて、長谷川さんの声が、非常に泣かせる曲ですので今日聞いていただきましょう。

Navi この曲が電波にのるのは初めてです。作詞 小池博先生 作曲 新井俊一先生、歌とピアノは長谷川淳さんということで、「曼珠沙華の里」おかけします。

 曲【長谷川淳 曼殊沙華の里】

Navi 時刻は12時25分を回りました。AZ熊谷6階FMクマガヤYZコンサルティングスタジオから生放送でお送りしております。この時間は「やわらか熊谷僕らがつなぐ物語」第5回「覚えていますか母校の校歌」というところで今日は熊谷市郷土文化会会長の小池博先生そして副会長の新井俊一先生にゲストとしておいていただきました。今の曲いい曲でしたね。

新井 ありがとうございます。

Navi なんか歌詞もしみるしメロディーがまたね、しっとりしていてたまらないですね。この話をもう少ししたいところなんですがねもう本題にいきたいと思います、熊谷市内の小・中学校の校歌を全部集めて一覧で眺めて私も見させていただいたんすけど新井先生どんなことを感じてますか。

新井 校歌の歴史っていうのは、学術的な研究というのはあんまりなくて要するに熊谷の校歌が全国的なものの中の位置づけとかそういうのじゃなくてやっぱり熊谷は熊谷の地域の特色が出てるっていうことでしたね。ただびっくりしたのはね、戦前から校歌があった東小とか西小とか石原とか。その学校はあるんです。それから中学はもういきなり昭和22年申請中学校ができたばっかりで校歌がある学校があるのです。学校ができたばっかりで校歌があったっていうはう驚きもあります。あとは私達が調べたのはどなたが作ったかって作曲者も全部調べてみたら、例えば一番作曲で多いのは長く熊谷高校で私もご指導いただいたんですが、荒井啓生先生が市内全部のうちの10校作られてるというのは、一つの特徴かなと

Navi 荒井啓生先生って熊谷高校の先生だったんですね。

新井 そうですね その方が熊谷市内の校歌を作られている。

小池 荒井啓生先生は熊谷女子高校での指導も何時間かやった年もあったみたいなんですね。

新井 私が高校のときはですね、今男子校、女子高が話題になってますけども 熊高音楽部は堂々と熊女の中へ行ける日があります。文化祭の日じゃなくて、音楽部の練習の日は熊女の気高き門のところからカラコロ下駄を鳴らしながら、

Navi 下駄で行ったんですか?素敵ですね

新井 先輩からは軟弱だというふうに怒られたんですが、混声合唱を荒井先生の指揮で熊女合同でやってたんです。小池 その姿を我々は羨んで見ていたんです。

新井 歌うために行ったんだですから。

Navi 下駄を履いてねそれはかっこいいですね。いや、先ほど校歌の時期のお話があったんで、ちょっとそこに触れたいなと思うんですけども、一番にできた学校ってどこなんですか?

新井 校歌一番は熊谷西小ですね。大正7年、実は私に西小にいましたので、この校歌を指揮していました。今でもそうですが「関東平和は雄大に歴史を語る熊谷の誇りを示せわが友よ!」そんな歌でしたね。

Navi 2番はどこですか。

新井 2番は石原小 昭和3年

Navi そうですか。3番はどこですか。

新井 3番は熊谷東

Navi なるほど次はどうでしょう。

新井 いやもうあとはねずっと昭和30年代ぐらいまで校歌はなく作られてなかったですね。

Navi 私は思ったんですけども、校歌のない時代ってどうなんでしょう。今は当たり前に校歌があるんですけどその時代って校歌なくてもよかったのですか?

新井 まあそういう時代もありましたね。

Navi でも歌を作ったときってすごい大事ですね学校にとっては

新井 特に周年行事でね、100年祭とか、何かその辺前後ではやっぱり効果があった方がいいというようなことでその前後言語からたくさんできたような感じで

Navi なんか多少のお話をちょっと聞いたことがあるんですけれども大型商店90周年のときに効果が出来たらしい。

新井 昭和38年なるほどねなんか校長先生のお話を聞いたら効果に90年って書いてあったんですけどそれで作ったらしいんですけど90年過ぎたら90年っていえなくて校歌の歌詞が変わったっていうことはありますまた小学校ですねあとは何かあれですかね例えば先ほどの荒井啓生先生が作った校歌の学校っていうのは一体何小学校とか何中学校ですかね。

新井 成田小、大幡小、佐谷田小、大麻生小、玉井小 奈良小 江南北小 中学だと 大原中 熊谷東中 奈良中 別府中ですね。

Navi リスナーの方でね、出身校の方いるかもしれないんですけど、荒井啓生先生やっぱり有名な方ですね。なんか別府中が出てきたんですけども、小池先生!別府中に校歌ができたのは最結構最近だっていうお話を聞いたんですけど

小池 私、昭和37年に着任したんですが、当時別府中には校歌がありませんでした。それで市内の各校がみんな校歌を歌うようになってるよと羨ましく感じてたんですけれども、やっぱり別府中にも欲しいねっていう話が盛り上がりましてね。昭和41年だったかと思いますけど校歌を作ることになりました。市内見渡してみましたら旧市内ですけども残るは別府中学校のみ、とかそんな話もありましてね、これは急がなくちゃということになりましてね。それではどなたに作詞作曲をお願いしようか。PTAの諏訪兵吉さんっていう会長さんが大変熱心でして、この方が率先進めてくださいました。結果として熊谷市の文化人として名の通っていた石坂養平先生を隣の地区ですけど奈良地区の石坂養平先生に作詞をお願いしようと思いました。作曲で非常に評判の良い荒井啓生先生は、歌いやすいなじみやすい歌を作るということです。早速お願いに行きましたところ、石坂洋平先生はもうあまりにも高齢でちょっと無理かななんていう話もあったようですが「いやぜひお願いしたい」っていうことで、別府中に来ていただいて別府沼の淵に立ってですね。北の赤城山を見ながら北風にさらしながら、寒い中でこの校歌を作った姿、この姿を思い出しますね。それが現在伝わっている。

新井 歌詞の中にね赤城おろしって入ってますよ

Navi その日寒かったんですね。

小池 そうですね。寒い冬の北風が別府沼を渡って岸辺に立つ養平先生に吹きつけてましたね。そんな中で最初に「赤城おろし」というところから始まりましてね

新井 沼の泉とかね。

Navi 本当にその現場に来て、石坂先生は、別府中のことを思い、そして体で感じたものを歌詞にされたという感じなんですね

小池 石坂先生にしてみればこれが最後の校歌ということだったようです。

Navi そうですか。石坂先生といえばねたくさん採用されてますけれども、新井先生どこが採用されてますか

新井 石原小 大幡小 奈良小 別府中 奈良中 妻沼西中、妻沼東中ですね。9校くらい作っていますね。

Navi そうですかとなると別府中学校は石坂先生、荒井先生というゴールデンコンビになるんですね。

小池 いい校歌を残していただきました。

新井 私は校歌研究をやりながら、小池先生がおっしゃったような記録が学校に残ってるかっていうとね。

小池 どうも残ってないんだよね。

新井 何日何時発表して誰が作ったって言うんだけど、本当はそういう交渉とか、経過とかそういうあるんです。ちょっとわかるといいなと思うんだけど、私が勤めた学校なんかは、校長はその辺を記憶に残している学校はあまりないみたいですね

Navi 学校には学校沿革誌っていうのがあるんですよね。私も校長やったので書いたのですが、逸話を残すか残さないか大事ですね。

新井 そうですね。書きにくい部分もあるんですけど、

Navi 先ほど小池先生が言ってくれたみたいに沼のほとりに立って何とかっていうのは、どっか記録に残ってても、いいですね。最後の石坂先生の作品ですからね。

小池 そういうエピソードでも、残ってると校歌への愛着が深まると思うんですけどね。

新井 これが本当の効果的っていうんです。笑

Navi 新井先生!まいりました。このお話一つとってみても、別府中の卒業生の方々が知ったら、なるほどと思って改めて校歌を思い出してね、校歌ってその学校にいた人しか歌えない歌ですよね。

新井 いつか私が教員時代、熊谷市の連合音楽会で「各学校の校歌を各校が歌う前にやろう」って1回か2回歌ったんですが。結局、他の学校の人は知らないわけで、何か教員が期待していたほど、子供は、ほかの学校の校歌を聞いてもあんまり感じなかったですね。これは全国的な傾向なんですけど、皆さんは甲子園の勝った学校の校歌を聞くと何となくうちの学校に似てるとかってそういう思いをする人がいると思うんですけど、いわゆる校歌スタイルっていうんですか。ある程度、音楽の形式で言うと、ある節があって、ちょっと次の節があって今度、全然違うところがあって、なんかそういうスタイルが多いせいかちょっと似たような感じがするんですけど、小学校は今流な歌詞もメロディーもポップな曲は多いですね。私が小池先生とご相談しながら「校歌研究やろうよ」って言ったきっかけは、全国的にも少子化の影響で学校の校歌が消えちゃう傾向にあるので、その心配があると聞いたんです。私は東京都の小学校の音楽の研究会と関わりがあって、東京都はですね、今から10年ぐらい前に東京中の小学校の校歌を全部集めたんです。楽譜と歌詞を1冊にして、一つの歴史を刻んだっていうこともあったので今回、私たちは郷土文化会のお仕事をさせていただいて何か歴史的な仕事をやってるのかなって思ってるんですよ。

Navi そうですね。例えばちょっと寂しい話になっちゃうかもしれないけど学校がなくなったときに、その校歌自体は表には、なくなっても人の心には残るわけですよ。

新井 校歌は残ってますよ。歌えますもんね。

Navi それをどっかに残しておくっていうことはやっぱり歴史的に大事ですよね。今、ちょっとそういうお話になったところで、ここでまた曲を挟みたいと思います。熊谷市といえば「4つの実践三減運動」という有名な取り組みがあるんですけども「朝ご飯を食べる」っていうのが4つの実践のうちの一つにありますよね。新井先生がたくさんの曲を作ってる中で、作られたこの「朝ご飯の歌」は関係あるんですか。

新井 あのね、歌を作って、私達がやったのを市が引き継いだ感じです。市P連の母親委員会っていうのがありましたね。そういう専門部会で「朝ご飯をたべよう」という運動をしました。その中で東小学校に新井さんという委員長さんが、もっと広げようよって広げるっていうことをただ口だけではなくって、見える化するためにレシピ集を作り、しかも朝ご飯の写真入りできちっとしたものを作ることになりました。私がそのお手伝いをするときにページが余っちゃったんですね。2ページぐらい。「ここのところはどうしますか」って言われたんで、「歌にしちゃったら」って、ちょと雑談的に出たんで、「私が作ります」って歌を作ったのが始まりです。ただ、歌を作ったんだけどそのままにしといたのでは広がらないので、CDを作って「各学校の放送室にプレゼントしようよ」ということになりました。各学校に、もしかしたらこの曲のCDがあるかもしれませんが、歌っているのは熊谷西小学校の合唱の上手なコーラス部の子供たちです。そのときに私の後輩で清水先生っていう方がいて、録音するんだったらいいマイクがあればできるから、マイクだけ特別仕様のものを借りてきて、録音しました。合唱は子供たちなんですが指揮は西小の先生がやりました。そこでなんと私がピアノ弾いてます。

Navi 聞いていただきましょう。西小学校の合唱部の子供たちの演奏で「朝ご飯の歌」をお願いします。

【 熊谷西小合唱部 朝ご飯の歌】

Navi 時刻は12時44分を回りました。この時間は「やわらか熊谷 僕らがつなぐ物語」を生放送でお届けしています。さあ、ここでお便りをいただきました。ラジオネームアッキーさんからいただきましたありがとうございます。連休の最終日楽しく聞かせてもらっています旧成田小には晴湖の掛け軸や晴湖と弟子の晴蘭さんが書いたご芳名帳もあります。校歌にうたわれる成田氏の資料もあります。ナビゲーターさん先輩に負けずに頑張って、旧星宮小でもバスの中でガイドさんに校歌を歌ってくださいと頼まれたとき「校歌はまだないんです」と残念だって話が残っています。大里みさこさんの紹介で、田島一宿さんが校歌を作ってくださったそうです。旧星宮小の校歌の話は、光文4年生の道徳の教科書に載っています。ということですね。アッキーさんからいただきましたありがとうございました。なるほどもうそれぞれの校歌にはやっぱりそれぞれの歴史があって、なるほどっていうことがありますよね。先ほどの昭和37年のお話でしたね。さあ各校の校歌なんですけどまだまだ分析しているところですけれども、先ほど山とか川とかが校歌の歌詞の中に出てくるって聞きました。どんなことが今わかっていますか。

新井  私が校歌分析をしていて一番関心があるのは、校歌の中でどういう自然が歌われているか。景色ですよね。それがやっぱり関心があって関東平野の中を流れている、どこの学校も荒川っていう歌詞が多いっていうのは一番特徴があるんですが、ただ多かったっていうだけではなくて44校のうちですね、16校も荒川っていう歌詞はついているんです。34%ですよ。

Navi  すごいですね。ちょっとたちなみに荒川が出てる学校名はちょっとわかりますか?

新井 ちょっと待ってね。荒川は 江南北小、荒川中 𠮷岡中 中条中はですね、土地柄荒川にも近いんですけど、利根川にも近いんですよ。両方入ってるんですよ。利根の心っていうので入っています。

Navi すごいあとはどうですかね

新井 石原小、佐谷田小、大麻生小、久下小、熊谷南小、吉岡小、桜木小、入って見える景色の中でやっぱり熊谷の校歌で一番特徴的なのは秩父を歌ってるのが多くて、これは15校ありました。ほとんど熊谷の校歌は荒川と秩父で成り立っているんじゃないかなって感じます。

Navi 例えばどんな学校がありますか

新井 秩父は順序は前後するけど 新堀小 吉見小 江南南小 荒川中 大麻生小 熊谷南小 吉岡小 桜木小あとは大麻生中 吉岡中 大幡中 大里中です。 

Navi ほとんどなんですね。

新井 欲張りなのは三つの山が入ってるところがあります。

Navi どこですか教えてくださいから

新井 わかるでしょ三尻、赤城と浅間と小冠山、小観山というのは観音山のことです。三つも欲張ってるすごいからですねはい、秩父だけではなくてね。富士山も入ってる。

Navi どこですか

新井、大里中と熊谷南小も入ってますね 東小も入ってますよ。富士見は富士見中っていうくらいだから入ってますね。これはちょっと熊谷から離れちゃうんですけど、この研究で「秩父の学校はどうなんだろう」となりました。学校は秩父の峯って、秩父にいていうのかなと思っていくつかの学校に聞いたら、やっぱりそれはなくて「武甲山」という歌詞が多いです。

【エンドテーマが流れる】

新井 三峰口いくとどうなるかとか、小鹿野いくとどうなるかとか、調べるとやっぱり山の中は具体的な山の名前ですね。そんなことで調子に乗っていて、先ほど東京都の小学校の校歌の冊子を見ましたら、東京都の荒川に北赤羽周辺の学校ではいきなり「秩父」って歌い出す学校もありました。校歌では、山は山の壮大さとか、川は、川の雄大さとか、やっぱりそういうのを子供たちに教育的な言葉として残したいので、埼玉は絶対「秩父と荒川」ですね。

Navi いやあ、深いですね。もう本当はまだこれもっといっぱい聞きたいこともありますが、もう時間になってしまいました。本当にもっとたくさん聞きたいのですが、小池先生にいたってはですね。今、お手紙いただいて石井姉妹のお姉さんからですが「野鳥の森や別府沼の案内をしていただいたことがありました。素敵なガイダンスで熊谷の結びつきを作っていただいた」とありました。音楽の話、校歌の話も全然まだ終わらないですけどまだまだまたお2人には来ていただいてお話いただくかもしれません。これからもどうぞご指導よろしくお願いいたします。今日は小池先生、新井俊一先生本当に今日はありがとうございました。

新井・小池 はい、どうもありがとうございました

新井 研究が出来上がったらね、また小池先生とでますね。

小池 校章についても載せますのでご期待ください

Navi この研究もできましたら、Webとかで発表したいと思います。皆さんどうぞお楽しみにということで、校歌皆さん思い出していただけましたか?もう一度、おうちで自分の卒業した学校の校歌を歌ってみてください。それぞれその関係者しか歌えない、大事な歌です。今日を機会にまた見直してみてください。本当にお2人今日はありがとうございました。また今後ともどうぞよろしくお願いいたします

一同 ありがとうございました。