「去華就実」の意味
 外面的華美に走ることなく,実質的・本質的な意味における人間性の豊かさに価値を置き,内面の充実に努めることによって,その実現を追求してやまない能動的かつ創造的な精神の営為を意味する。
 早稲田実業学校の校是として知られている。 戊申詔書の一節にある言葉 戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は、1908年10月14日に官報 [1]により発布された明治天皇の詔書の通称。日露戦争後の社会的混乱などを是正し、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示そうとしたものである。この詔書をきっかけに地方改良運動が本格的に進められた。webblio辞書より
 林賴三郎のいう人物
1878~1958 行田市出身 
近代日本における法学の権威、林頼三郎は明治11年9月6日に忍に生まれ百石町で育った郷土の偉人です。父禮三は忍藩の御殿医の家柄。若くして長崎・横浜で洋学を学び、その後は教鞭を取りました。 やがて士族商法の失敗や水害に遭遇するなどで財を失い、貧しい暮らしを余儀なくされました。頼三郎は学業を終えると北埼玉郡役所で給仕となって家計を助けますが、向学心と誠実さが郡長である林有章の目にとまり、養子として迎えられます。
明治26年に上京。現在の中央大学である中央法学院で特待生として学び、卒業後は司法官試補、区裁判所判事、大審院検事、大正9年には法学博士となりました。その後も司法次官、検事総長、大審院長を歴任。 11年には廣田内閣で司法大臣となり、貴族院議員に登りつめました。昭和13年4月には中央大学学長に就任、戦後の一時期は公職追放となりますが、昭和27年には中央大学総長に復帰。33年5月7日に79歳で亡くなりました。 北埼玉医師会HPより

扁額は石原小学校事務室窓口上にあります。